言葉は光だ。暗闇を照らす。ぼくには地図が必要だった。なぜなら自分の居場所が分からないから。いや、いまの社会に自分の居場所がほとんどないから。だから言葉にして進んでいかないと道に迷ってしまう。迷ってしまえば不安になり、既存の社会の枠組みに安定したいと考えてしまう。だから文章にして道を照らす。
ここ数日は草刈りをしている。いま暮らしている地域の景観をつくる活動をしている。景観をつくる活動は、地域支援員という仕事になっている。地域支援員とは、人口が減ってお年寄りばかりで消滅する可能性の限界集落で、見守りやサポートをする仕事だ。ぼくは「生活芸術」と名付けたアート活動を追求していった先に、日本の過疎地に自分のフィールドを発見した。
過疎地は、当然ながら50年前はもっと人口があった。子供も兄弟親戚、お年寄りも大きな家族で暮らしていた。いたるところの土地は田んぼか畑だった。ここで生まれた人は、かつては都市を目指す必要もなかった。ところが、高度成長期に多くの人が都市に暮らすようになって、田舎の価値は失われていった。その過程で生活も失われていった。今では畑も田んぼもやらない人口の方が圧倒的に増えている。田舎でも同じだ。ぼくも田んぼもやっていないし、畑も少ししかやってない。畑はやっているとカウントできるレベルでもない。
目の前には耕作放棄地と休耕田と呼ばれる土地が広がっている。つまり大地が放置されている。一方で都市では土地は高騰し住む場所がない人もいる。このアンバランスさの中で経済成長を目指してけば、伸びるところだけ伸びて、ほかは置いていかれる。それならそれでいい。無理に経済成長をさせる箇所は次第に破綻していく。そのセイフティーネットとしてほかの場所を開拓しておきたい。それが均衡を保つということだ。自然の中にある暮らしを復興しておかなければならない。
そこで閃いたのが、この地域の放棄された土地を利用して景観を作品にすることだった。今現在はなにも価値もないし、迷惑としか思わないような放棄地に何かしらかの利用価値を見出すことができれば、未来に資源を残すことができる。ぼくは表現者だから作品として、この閃きをカタチにしたかった。この作品は自然が題材だから、自然の速度で成長していく。だから1年、2年、5年、10年と時間を積み重ねていくことでしかカタチにできない。それが作品として結実するのはいつのことか分からない。それでもはじめたし、そういう制作環境に自分を置くこともできた。あとは続けるだけだ。けれども目に見える成果というものはほぼない。とくに一年目の今年はそれを痛感する。
そんな思いを前回書いたハンナ・アーレントの思想が解きほぐしてくれた。ぼくのしていることの多くは「活動」だ。ここには成果よりも物語の方が多い。活動の中から敢えて「仕事=WORK」を抽出しなければ、評価もお金も生まれない。もちろん、活動の中から物語を言語化して文章にするのもWORKになる。言語化することは同時に、ぼくにとって道を照らす道具でもある。こうして確認作業をしながら進まないと道を見失う。そういう意味では、日常世界を開拓する冒険をしている。それぐらい曖昧な領域に足を踏み入れている。どこか遠くへいくこともなく、日常を冒険をしている。
そもそも人間という小さな存在より以前に、地球が活動してきた。その活動が生み出した作品がこの自然のすべてだ。人間が生み出したモノ以外の。身の回りのモノで作品をつくるという「サバイバルアート(=身の回りのもので生き延びることにヒントを得た創作活動」を通じて、地球が生み出したものを題材に作品をつくりたいと考えるようになった。身の回りのモノ、例えば商品やサービスはお金を支払わなければ手に入らない。仮に手に入れたとしても、そこには商標や著作権などが存在する。けれども自然なら何も咎められることはない。
ここ数年は「生活をつくる」という活動に費やしてきて、いよいよ自分の生活ができつつある状況で見えてきたことが、もっと純粋な「つくる」ということだった。なぜ人間はモノをつくるのか。それは生きるために必要だからつくった。人間にとって「つくる」とは根源的な営みだった。これは直感的な閃きで、まったく当てにならない思い込みでもある。だからこそ、そこに進んでいくことで新しい道を拓くことができる。間違った道でも進んでいけば、どこかの道へと通じる。その回路は自分だけしか持っていないバイパスになる。
生活の先に見えた「つくる」が土器だった。井戸を掘ったら粘土が出てきた。だから、陶芸ではなく土器と呼ぶ。はじまりは、訓練も洗練もなかった。ただ手のひらで水を掬うような器だった。そういう「はじまりのカタチ」を探求したい。これは縄文土器でもない。縄文というひとつのスタイルに集約されることで、縄文とそれ以外に分類させたくない。
とにかくそれよりももっと純粋な、意図よりも必要が先で、必要よりも偶然に発見してしまった、そんな現場に立ち会ってみたい。それはたぶん、何かの間違いが起きたような、危ういバランスで成り立っている状態なんだと思う。そこには分類や価値や評価はない。自分はそこへ向かっている。