いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

芸術鑑賞を行動に変えて世の中を変えるために

音楽好きとしては、いまアメリカで起きている暴動がなぜ起きているのか、それを知らない訳でもなく、それでも自分は日本人で当事者ではないから、関係がないのだろうか、と考えるけれど、まったく関係がないはずもなく、その問いをもう少し掘り下げるために、友達がオススメしている映画を観た。ひとつは2013年に公開された「それでも夜は明ける」。(アマゾンプライムで観れます)

1850年ころにワシントンD.C.で誘拐され南部で奴隷となったなった黒人の物語。(詳細はぜひ観てほしいので割愛)

 

もうひとつは、昨日の夜「13th-憲法修正第13条」を。(Netflixで観れます)

アメリカで100年前に奴隷制度が廃止されたときから、実は、黒人が悪いというパブリックイメージをつくり、犯罪者に仕立て上げて、そのパブリックイメージは度々、政治のプロパガンダに利用され、政治家は法の下に生活の安全を約束し、そのためには犯罪者を厳しく取り締まるべきだ、とメッセージし支持を集める。

人々は「そうだ!安全に暮らしたい」と考え、その安全の敵が黒人だと誘導されてしまう。それは今現在も続いていて、法の下では人は平等だけれども、犯罪者には平等が適応されない、それが13条の修正。そうやって抜け道をつくり、奴隷制度はなくなっても、黒人を刑務所に服役させ労働者して使役させている。また刑務所が巨大な産業になっていて、犯罪者の数が増えるほど利益が出る構造となっていて、その利権を止めることもできないと言う。アメリカの黒人の三人にひとりが逮捕されている。対して白人は17人にひとり。すごい。何がすごいって、社会の歪みもうそだけれど、こうして一本の糸で紐解くことができることもすごい。そこまでアメリカは成熟しているのか、もしくはそこまで腐敗が行き届いてしまっているのか。

 

これはアメリカだけの問題じゃない。資本主義を軸とした社会構造の歪みであり、社会構造のデザインが壊れているから、修正することができない。正しさの答えがないから、社会はその時代ごとの都合によって改悪され、その過ちが積み重なって歴史となっていく。

ぼくたちは、たくさんの過ちの延長線に立っている。その危うい橋の建築を引き継ぎたくない。できるなら、もっと違う未来を創造したいと思う。

 

この話を友達にしたら、歴史好きの彼はこう言った。

アメリカには黒人の差別問題という明確なポイントがある。じゃあ、日本人だったらどうだろう? ぼくたちの社会も問題だらけだ。けれども、これが原因ですとか、これが問題だって焦点を絞ることができない。それは、ぼくたちが歴史を知らないからなんだ。アメリカの黒人は、ずっと声を上げてきた。ときにそれは音楽として、本や詩として、さらには社会運動として表現されてきた。この問題と闘う人たちは、その問題がどこからやってきたのかそのルーツを知っている。だから正義を訴えることができる。ぼくたちがもし社会に対して声を上げるには、ルーツを知り、間違っているところまで立ち返る必要があるんだよ」

 

日本には、アメリカの黒人問題ほどはっきりした糸が見えない。日本はいま、どうなんだろうか。暮らしやすいのだろうか。生きていきやすい国なのだろうか。問題はどこにあるのだろうか。

 

家にプロジェクターがあって、絵を描くキャンバス があるので、夜の映画館と名付けて妻チフミと映画を観た。前の二作とは変わって、政治的ではないものをと考えて「タクシー運転手-約束は海を越えて」を観た。

内容をよく知らないまま、雰囲気で選んでしまって、これもまた政治に関するまさかの衝撃的な映画だった。80年代の韓国で政権の暴力によって市民が弾圧される話だった。この映画もぜひ観て欲しい。(アマゾンプライムで観れる)

 

この映画が話題になっているのは、今の時代が、そこまで狂いつつあるのだと感じる。多くの人が社会の構造に危機を感じているのだと思う。どうして、社会はそこまで暴走してしまうのか。

 

このあまりに巨大な問題は、国家という前時代的な制度の限界を露呈している。ぼくらは「国家」とは何か、改めて問わなければならない。そして、もし国家に対していま何かアクションを起こすことができるなら、それは距離を取ることだと思う。国家の暴力に飲み込まれない間合いをみつけることだ。

 

ぼくは生活をつくることを芸術活動としてやってきた。それは、社会の中に一時的な自立空間をつくる活動でもある。依存を減らして、それがなくても最低限生きていけるセイフティーゾーンを構築すること。

 

例えば

1)家賃を安くする。できるならゼロ円に。

なぜ?家賃を支払うのか?土地は誰のものか?なぜ都市の土地は高騰するのか。そために生涯働き続ける必要があるのか?

2)都市と距離を取る。

都市は、貨幣経済を循環させるためにデザインされている。いかに価値を生み出すかに特化している。都市から離れるほどに家賃は安くなり土地の価値も低下する。この両極を利用して経済的な負担を軽減する。

3)生産が消費を上回ること。

作っているか?自らの手で作ることは生産。何も作らないで手に入れることは消費。消費をするには貨幣が必要になる。生産できるなら、貨幣への依存はずっと減る。このバランスをコントロールすれば社会からの自立に近づく。自給自足まで極論しなくても、消費をやめて生産に転換する。あれも欲しいこれも欲しいと感じるのは、社会の広告戦略に嵌められているだけ。必要なものはそれほどない。

 

ぼくたちが何も行動せず、現状にしがみつき続けるならば、社会の構造は変わらない。それでいいのだろうか。いや、子供たちの未来に少しでもマシな社会を残したい。ぼくたちが、少しずつ理想とする生活にシフトしていけば、社会もまた変わっていく。ほんとうに単純なことでしかない。

 

日本は、そもそも自然環境に恵まれていた。寒い冬を越えるノウハウも充分あった。自然を最大限に利用して生きる智恵があった。そう遠くないむかしまで、農村では貨幣に頼らずとも暮らせる環境があった。いまならまだ取り戻せる。そこにレイドバックすることではなく、捨ててきた日本の生活文化をいまの暮らしにミックスすることで、ぼくたちは、ぼくたちのルーツに立ち返ることができる。


追記

まだまだ書くべきことや、一方的な主張もあるけれど、世界で起きているこの現状に対して行動するなら、まずは目の前を変えることだ。