いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

どうすればみんなの人生はもっとよくなるのだろう

信じられないような暮らし方をしている。誰かにそれを話したい。成功している訳ではないけれど不安はなくて、けれども単なる自慢のようでもあるし、これを言葉にしてしまうと、消えてしまうような、ほんの小さな幸せの芽が出ただけのこと。

年始に「アントピア」という本を読んだ。そのとき、今していることが理想的なバランスにあると感じた。この本は「どうすればみんなの人生はもっとよくなるのだろう」「誰もが自由にしあわせを追求できる社会の見取り図」と表紙に見出しが書かれている。

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ウォルター・モズリィという推理小説家が書いたエッセイで、見出しの通りのことが書かれている。すごく身近な誰かが話してくれているような親しさで、理想的なライフスタイルの可能性が提示されている。すごく身近な友達みたいなウォルター・モズリィさんは、アメリカ人で、アフリカン・アメリカンのつまり黒人で60年代の公民権運動などにも通じている、ぼくよりもたぶん20歳くらい年上で、実際は遠くの国だし目の色も肌の色も違う小説家だ。さほど身近な人でもない。それなのに強烈に共感するこの気持ちは一体何なのだろうか。

簡単に答えるならここにロックがある。特にブルース、ソウルやヒップホップが抵抗してきたメッセージに重なるところが大きい。それは当たり前の権利、本来誰もが手にすることのできるそれが、当たり前に手に入らないことへの抗議だ。いやいや、当たり前の権利なんだから手を伸ばせば手に入るよ、やってごらん、とすでに持っている人は言う。けれどもそこには大きな壁があって、そう簡単には手に入れることができない。これを読む人がどっちに属すのかぼくにはわからない。分かるのは、この問題は右や左と区別できるようなことではなく、複雑に絡まって解きほぐせない。ある部分ではその権利を享受できるけれど、少しズレると、手が届かなかったりする。そして手に入らないそれは生きるために必要なことだったりする。そんな不平等がぼくたちの暮らしを分断している。

ぼくたちは何を必要として、何を不足に感じるのだろうか。なぜ何かに駆り立てられるように日々を過ごすのか。アントピアは、その疑問へ立ち向かうきっかけと、その先の未来に希望を与えてくれる。

当たり前にぼくたちが必要なものは、安心して暮らせる家とか、食料、水、もちろん呼吸するための空気、そんなものだったりする。ところが、それを手に入れることの難しさ。それらはすべてお金を経由しなければ手に入らない環境になってしまった。例えば、都内に暮らそうとすれば、家賃、光熱費、通信費、食費、交際費、税金、当たり前に出ていく毎月の支払いが積み上がっていく。少しでも暮らしをよくしたいなら、もっともっとよい仕事を求めることになる。そのもっともっとは、ぼくたちをより厳しく労働へと駆り立てていく。もしくは自分は少しでも楽をして誰かを働かせ、自分の取り分を増やしたり。この欲求には天井がない。

さて、こんな現代にだ。アメリカの社会をサバイバルしてきた小説家先輩は教えてくれる。生きるために必要な基本的なもの、さらに必要な喜びを満たすためのもの、この二つに分類する。それを社会主義的なこと、資本主義的なこと、と説明する。つまり、生きるために必要なインフラは社会主義的に平等に与えられ、さらに必要なことに関しては、資本主義的に欲しい人はどんどん追求していけばいい、そんなやり方を提案する。

この本は、まるでぼくのことを話しているようで、ページが進むほどに驚くばかりだった。まるでこの先の未来にそっと答え合わせをしてくれているようだった。

ぼくはいま北茨城市に暮らしている。東京から5年前に移住した海と山のある田舎暮らしだ。現在は集落支援員という仕事をしている。ぼくは芸術家をしていて、理想の制作環境を手に入れるために、北茨城市の過疎地に自分の生活を作った。廃墟を家にして、薪ストーブ、薪風呂、井戸水を使って。家賃はないし光熱費もかなり少ない。妻は少しの畑をやっている。この暮らしを作るときに、周りの耕作放棄地も自分の庭に見立てて、草を刈って花を咲かせた。地域の人たちと桜の苗を植えて景観を作ってもいる。冬は炭焼きをしている。この活動がぼくにとっては生活芸術というアート作品であると同時に、それらを維持継続することで、集落支援員の仕事として給料を貰っている。つまり、ぼくの妄想レイヤーでは現代アート最前線の活動だけれど、社会的には地域課題を解決する働く移住者。それぞれのレイヤーのタイトルは違うのに中身が完全に一致している。この仕事のおかげで、ぼくはこの土地と共に暮らすことが仕事になっている。

つまり、すでにアントピアがここにある。集落支援員の仕事は経済的な余剰を多くは生産しない。そもそもそれ自体はお金を生み出さない。けれども、ここで誰かが踏ん張らないと、日本の多くの地方が過疎地になってしまう。森も山も土地も荒れてしまう。たくさん働いてお金を稼ぐということとは違う仕事がここにある。アントピア的には社会主義っぽくもある。懸命に炭を焼いて売ってもそれは協議会の収入になる。そこから必要な経費を出してもらっている。炭焼きだけでは食っていけない。この仕事はいくらやっても収入は増えない。その代わりに、ぼくがこの土地で生きていくに必要なお金は、全体の活動に対して支払われている。

ぼくは、ここに至るまで、きっと誰もが望むようなライフスタイルになると思い込んで夢中で取り組んできた。こうすれば、きっとみんなよりよく生きていけるよ、という事例ができるという想いで。

ところが、たまにこの生活スタイルについて話す機会があって、この暮らしについて説明すると、よくそんなことできますね、とか、わたしにはできない、と言われてしまう。例えば、いい時計をしたいとか、いいクルマに乗りたいと思わないのですか?と質問されることもある。

ぼくは生きている。君も生きている。現代のこの社会に。ブルーハーツの曲に「ぼくがオモチャの戦車で戦争ごっこをしてたとき、遠くベトナムの空で涙も枯れていた」という歌がある。

ぼくがいい時計をして誰かを助けることができるなら、それはした方がいい。けれど、いい時計を手に入れて喜んでいるうちに、ほかの場所では寒さに耐えてる人や今日食べるモノがない人もいる。それはいつの時代でも。だからもう少し社会の役に立てないかと思う。いい時計を買う前に。自分を犠牲にして身を削るまでしないとしても、何か好んでしていることが遠くの困っている人の助けになるようなやり方で。

なぜなら、ぼくたちは、当たり前に簡単に手に入るものすらも、努力しないと手に入らない状況に追い込まれている。そういう状態が当たり前だと思わされている。そう、人種差別が当たり前だったように、自らが選択して意志を持って動かなけば、「当たり前」は誰かの都合で位置を変えられてしまう。生きるために火を使うことも、水を汲んで飲むことも。自然が与えてくれるものを受け取る自由、それが手に入らない社会、これは個人それぞれの努力の問題なのだろうか。

ちょうどその夜に「ブルースの誕生」という映画をyoutubeで観た。白人の男の子が黒人に混ざってフルートを吹いて、それを親に見つかって怒られる。そんな悪い汚い音楽を二度やるな、と。子供は、街には楽しい音楽が溢れているのに、と抵抗する。それでもブルースを止めることはできなくて、街にも白人のブルースプレイヤーが現れてくる。街はカーニバルのように賑やかに踊り出し、馬車の馬も踊り出す。この身体が勝手に動いてしまう、そのグルーヴと自由さ、ここに生きるチカラを感じるし、社会を変えていくエネルギーと希望が見える。