いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

盗作と創作。

家を改修していると絵が描きたくなって、絵を描いていると、立体を作りたくなって、お酒とタバコを吸っていると何もしなくなって、これはヤバいと思って、お酒とタバコをやめた。習慣には、悪いのと良いのがあって、基本ぼくは自堕落だから、油断するとルーズになっていく。Born to Loose. だからパンクが好きなんだと思う。

 

良くも悪くも没頭してたり熱中しているのが好きで、まあお酒を飲んでいるのも絵を描いているのも同じことで、違うところは生産的かどうか。1時間お酒を飲めば気持ちよいだけで何も生まれなくて、1時間絵を描けば、明日へ繋がる何かが生まれる。技術だったり、売れるかもという希望や失敗という結果だったり。ほんとうに、僅かな違いが人生に大きく差をつける。100メートル走で、たった1秒が大差になるように。

 

時間は、目に見えないし、長くなったり短かくなったり変動する。フランスの作家セリーヌは「一日減って一日増える」と書いた。これは生きられる日が一日減って、生きた時間が一日増えるということだ。

つまり、どっちにしろ、死に向かって一方通行なんだから、それほど恐れることはない。それでも、生きるためにはお金が必要で、年金や税金、携帯やなんだと支払いがある。税金の類いは、何百年も変わらない年貢みたいなもので、近代化なんて表面だけで、根っこのところで人間は何も変わっていないのだから、誰かに支配されるなら自分を支配してコントロールして抵抗した方がよっぽど面白くないか?人生?という話だ。それを表現するなら小説がよさそうだ。自分で自分をコントロールして社会と戦うんだ。書きながらそう思ってきた。

 

むかしより、表面的に便利になっているから、適当に生きられてしまう。むかしだったら、とっくに死んでいるような状況でもまだ生きている。でもそれはほんとうの意味で生きてると言えるのだろうか。100年前の庶民は、畑をやらなければ死んでいた。畑をやっても、食べられるのは僅かで苦しい生活を強いられた。でも、いまは最低限のお金があれば生活は保障される。食べ物を育てても、誰にも奪われることはない。なんだって取り上げられてしまう世の中の仕組みなのに野菜については、税金とか手数料とか搾取されないのは、現代社会の裏技的抜け道だと思う。

 

最低限の生活を目指しているわけじゃないけど、その対極にある豊かで幸せな生活すらも意味不明で、何を指しているのかの共通認識すら存在しない今現在、すべてのことが、貨幣経済な価値基準で計られているから答えがない。例えば、1000万円持っていても使い方を知らなければ、すぐに不幸せになるだろうし、単純な話、どんなに高級なトマトよりも自分で育てたトマトの方が美味いってことだ。これは味だけの話じゃない。

 

ぼくが常にこうやって問い続けているのは、何のために生きるのか、それについてよく考えているから。よく真面目ですね、と言われる。そうなんだ、真っ直ぐに進まないと、すぐに迷路に入り込んでしまう人生は。けれど、では君は、痛みを感じないのか? と聞き返したい。

子供のころからアニメや漫画、文学や映画に親しんで、その名作のほとんどは、人類の愚かさに対して表現してきた。宗教や哲学、芸術の類いは、ずっとそうだった。そうじゃないか? ぼくは手塚治虫の作品が好きだ。少しでも、そんな次元の表現に近づきたい。

仮にもし君が、手塚治虫なんてどうでもいいし、芸術やアートも何の文化的な表現に対しても興味を持たないのなら、「生きることへの興味はないのか?」と質問してみたい。

食べることや異性や、それらを手に入れるためにすることや、快適な住まいなどについて。

 

もしそれすらにも興味がないと答える人がいるなら、この時代のディストピアとしての設定は完成している。動物としての本能を去勢された人間への改造計画が完了してしまった。だからこそぼくは、もっともっと表現しようと思う。それがオルタネィティブであり、カウンターカルチャーでもある。もちろん、これは架空の話だ。それでもぼくの頭の中は、ほとんど空想で溢れているから、大真面目だ。空想の大真面目だ。空想と現実の狭間で生きるほど、クリエイティブなことはない。

 

ぼくは「アート」という表現活動を自分のライフワークに選んだ。例えば絵を描くことは、空想の世界を現実化する技術で、社会参加的には、貨幣を獲得するためのテクニックでもある。ここにも空想と現実の別々のレイヤーが重なっている。

「アート」は記号だ。何にでも変換できる便利なツールだ。例えば、絵画自体が貨幣だということもできる。けれども、ぼくが生産する貨幣は贋金だったりもするから、5万円の絵は5万円ではない。ある人にはそれ以上の価値があり、ある人にはまったく価値がない。それでも、絵画を貨幣と交換するのは、ぼくにとっての生命活動だからだ。絵を描くことは自然の営みであり一次産業だ。ぼくのアート活動は、誰かを騙したり搾取したりしないで、公害や廃棄物が出ない循環のなかで営まれる理想郷のなかの社会事業だ。

大切なことは、どう生きるかだ。どんな絵を描くかじゃない。どういう生き方をしてどんな絵を描くかだ。どんな学校へ行くのか、何を学ぶのか、どんな仕事をするのか。その問いと同じことだ。けれど知っている。自分に問いを向けるのは面倒だと知っているから避けている。知らないフリをしている。

実は日本社会は、それだけの自由を国民に与えている。両方の意味で。無視する自由。自由になろうとする自由。けれども、自由を掴む人は少ない。例えば、テストでゼロ点を取る勇気がない。嫌だと思っている会社を辞める勇気がない。同じことだ。野菜を育ててご飯は食べれても、人が羨むような地位や名誉は手に入らない。テレビや雑誌にも紹介されないし、肩書きもない。数ヶ月先どうなるのか分からない。でも生きている。ぼくは、これが自由だと思う。今のところ。つまり自由ほど不自由なことはない。自由であるほどに自分を律しなければ堕落していく。

何をしてても同じことなんだ。お酒に溺れてもお酒を辞めても。はっきりしているのは、ぼくたちは、社会に対して責任がある。人間として。ぼくたちは自然に対して責任がある。動物として。自然が破壊し尽くされれば人間は滅びる。都市が壊滅すれば多くの人間が死ぬ。その状況で生きる強さを持っていない。

 

だからぼくたちは指揮をする必要がある。人間ひとりひとりが、その生活のなかで政治家になる必要がある。食料について、経済について、外交について、身の回りの環境について、仕事について、オーケストラの指揮者のように調節すること。これを生活のなかで演じることができる。空想と現実は、同じレイヤー上に重なっている。政治家にならなくてもいい。ほんの少しの欲望と習慣をコントロールすることができれば。

 

ぼくは絵を描く。はじまりはコラージュで、雑誌からイメージを盗んでいた。盗んだ破片を組み合わせて新しいイメージを創作した。まったくのオリジナルなんてない。何かに影響を受けて表現は生まれる。その点、自然は寛大だ。大地から野菜を作って恵みを頂いても、誰かと同じようにやっても罪に問われない。自然と向き合って心が動いた風景を描いても、それはオリジナルだと言われる。目の前から盗んだイメージという点では、ぼくにとって、自然を模倣するのも誰かの作品を盗作するのも同じこと。目の前にある自分が素晴らしいと思うモノを絵にするのだから。でも、ほんのすこし、ほんのすこしの違いで、ぼくたちは、まったく違う人生を歩むことになる。

 

だから

何を見るのか

何を聞くのか

何を買うのか

何を売るのか

何を捨てるのか

 

その選択のひとつひとつを研ぎ澄ますことが、アートであり、ぼくはこれを生活芸術と呼んでいる。これは未だ存在しないアートだから、こうやって言葉を並べて、絵を描くようにその概念を描写している。