いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きるための神経政治学ー根を掘ること。

f:id:norioishiwata:20200603103911j:image

枝豆を芽出しした。どこに植えるか考えた。暮らしている場所は、田舎だから空いてる土地がたくさんあって、もちろんそれは誰かが所有してるのだけれど、声を掛けて了承してもらえれば、植えさせてもらえるくらいにこの地域では、土地の概念が新しくなっている。

土地の所有から共有へとシフトしている。それはこの地域の土地に価値がないからだ。価値がないから、人は放置してしまう。放置すれば地域の景観が悪くなる。それこそ悪循環だ。価値がないと言われる田舎の土地でも、枝豆を植えるには、食べ物をつくるには最高の環境で、その枝豆を出荷して利益を上げようとか企まなければ、素晴らしく利用価値のある土地がここにある。

ぼくは生活の実験をしている。「価値がある」とは何だろうか。価値があることで争いが生まれる。血を分けた兄弟ですら争いお互いを憎むまでになってしまう。聖書にも書いてあるカインとアベル。だったら「価値」に触れない方が人間は幸せに生きられるのではないだろうか。

価値がないモノとは何か。人が要らないというモノを利用してみる。価値がないからと放置されている土地を使ってみせる。世間一般的には価値がないから、誰もそれを奪おうとはしない。

f:id:norioishiwata:20200603103834j:image

今暮らしている廃墟の周りも、ほとんどが空き地で、空き地というよりは休耕田や耕作放棄地で、目の前は元々、田んぼだった場所が荒地になっていた。放置されたままより手入れした方が景観がよいので、草刈りをやらせてもらった。綺麗になったら持ち主の人が木は大きくなると厄介だから木を植えなければ「好きに使っていいよ」と言ってくれた。引越し祝いにと、ブルーベリーをプレゼントしてくれた友達がいて、荒地の開墾を手伝ってくれ、ここに植えてくれた。同じタイミングで、ブルーベリーを植えたいと言う人がいて、合計4本植わった。

家の前に畑らしき場所が生まれつつある。畑を借りて食べ物を栽培するより、荒地が畑に生まれ変わる過程が面白い。

 

枝豆を植えるためにブルーベリーの荒地を耕すと、すぐにススキが根が現れた。ススキは束になって根を張っているから厄介で、鍬で少しずつ掘り返した。根を取り除くのは根気のいる作業で(だから「根」の「気」なんだろう)コツコツと崩すしかない。そうやって単純作業にハマっているといろんな思考が浮かんでくる。

f:id:norioishiwata:20200603103931j:image

根は植物の神経。養分を土から吸い上げるため毛細血管のように地中を張り巡らせる。英語で根はroots。ルーツには物事の根源という意味がある。

植物に根があるように自分にも「根=ルーツ」がある。生まれた場所とか、好きな事だとか、選んできた事、それらの要素が自分を構成している。ぼくは、ススキがススキであるためのルーツを徹底的に破壊している。根絶やしにするために。ぼくは自然環境に介入して、大地を変えようとしている。

 

こうして自然と格闘してみると、分かることがある。それは自分たちのことで、好きな事を見つけて夢中になっていると大人たちは、それを制限する。ゲームとか漫画とかスマホとかSNSとか音楽とか。夢中になる物事に対して、もっと勉強しなさい、働きなさいとか、ちゃんとしなさいと規制したがる。それは社会に適応させるために自然に育つ心を矯正することだ。むしろ、目の前のことに夢中になるほど、勉強になることはないのに。もちろん、必ず何か役に立つとは限らない。だから「役に立つ/立たない」という判断基準は実際のところ、それほど意味を為さない。むしろ、そのボーダーを超えたところで、予想外の何かサプライズやハプニングが起きる。それを何と呼ぶのか分からないけれど、発明や発見の種はこの辺にあると思う。

 

ぼくは音楽が好きで、今も大好きで毎日聴いている。高校生のときからバンドをやっていて、30歳になる頃に、そろそろどうするのか、と言われるようになった。それは仕事にするのか、仕事にしないなら、プロになってお金を稼げないなら夢を諦めるようにと諭された。

まったく理解できなかった。なぜなら、音楽が好きだからやっているだけで、お金になろうが、なるまいが関係なかった。それ以上に音楽から学ぶことは無限にあった。とくにぼくが好きな音楽、ロック、パンク、ヒップホップやレゲエは、社会に抵抗するやり方を教えてくれた。

漫画やアニメや映画もそうだ。小説も本も、どれも社会と折り合いをつけるための参考書になった。生き方を学ぶためにそれらを必要とした。お金にもならない無駄かもしれないモノを夢中で追いかけてきたけれど、それらは今、たしかにぼくの根になって自分を構成している。音楽や映画や漫画やアニメから養分を吸い上げて、ぼくの表現を作っている。音楽家としてお金を稼ぐような生き方にはならなかったけれど、別のカタチで表現をして生きていけている。

たくさん聴いた。特にロック、ヒップホップやソウルやジャズ。そうした音楽の中にはブラックミュージックとカテゴリーされるモノがある。それは奴隷制度という歴史に根を持っている。人間が人間を奴隷として利用した時代があった。今、アメリカはその問題の根が残っているおかげで街が燃えている。暴動が起きている。

それはアメリカだけの問題ではない。社会には歴史があり、たくさんのルーツが束になって現代へと受け継がれている。現代にはあからさまな奴隷制度はないけれど、ぼくたちは否応なしに社会のシステムに飼い慣らされる。社会に従事する人間として教育される。それは人間が人間を利用して搾取してきた悪しき習慣であり、奴隷制度的な思考の根が残っているからだと思う。まだまだ社会は未熟で誤りが多い。だから常識や当たり前なことにでも、疑問を持ち納得いくまで考えてみたらいい。

 

ぼくはどういう訳か、社会に違和感を持ってしまって従順になることができなかった。いつも空想の世界が頭の中にあった。それは音楽のせいだったのかもしれない。だから、この競争が激しい資本主義社会では使えない人間だった。年収も低いし肩書きも地位もない。理想は空想のなかだった。だからぼくは価値のないモノに共感するのかもしれない。役立たずにはほんとうに価値がないのだろうか。

 

日本では、明らかに政治腐敗という問題が起きている。腐敗するということは神経回路が腐っている。民主主義とは、国民の声を聞きまとめる代表者たちが政治家として社会を舵取りしていく。けれども今は、国民の声を聞く努力がされないまま、別の目的で社会が動いているように見える。例えば、困っている人、苦しんでいる人が声を上げているとしたら、自分が苦しくなくても、その傷みを和らげるように社会に働きかけるべきじゃないだろうか。社会に神経が行き届き、小さな声も拾い上げて、助けられるような社会がいい。もちろん、これは理想論だけれど、素晴らしいと思える理想すら描けないこの社会に問いを投げかけ、行動で答えていきたい。それには政治家の立場が強すぎる。政治家は、もっと立場が低く公務員で給料は平均所得ほどで、財産の所有は認められず、それでも社会をよくするために献身できるほどの人間が望ましい。その代わりに生涯は社会に保証されて生きていける。公共には価値がない方がいい。そのポストは誰も欲しがらないような、それでも貢献してしまうような人間が望ましい。

 

弱い人間は、強いものに依存してしまう。失うモノが多いほどに人間は弱くなる。資産家や金持ちでは、失うモノが多すぎて欲望のために道を外してしまう。ほんとうに強い人は、弱い人を助けるチカラを持つ。だからぼくは強く生きたい。誰かの助けになれるように。社会を牽引する人たちが、弱い人の立場になって考え行動する社会を望む。

 

経済至上主義社会が、お金を最優先するあまりに、それぞれ個人が持っているルーツを破壊して、人間を画一化し利用しようとしてきた限界点が見え隠れしている。お金をたくさん手に入れることが社会の目指すところなのだろうか。価値を奪い合って、勝者と敗者に分断することが社会の理想なのだろうか。今の社会からは、目指すところの理想が見えない。だから、理想を想像し描いてみる。

 

土地を耕し食べ物を作ることは、お金のためにしか動かない社会への抵抗になる。お金に依存しない生き方を構築することは、デモに参加するよりも、暴動に加担するより、もっと直接的な抵抗になる。なぜなら、自分のチカラで生きることができれば「ノー」と言うことができる。競争に参加しなくても負けても、それでも自分を曲げずに生きていくことができる。人々が強くなれば、政治家は人々の意見に従うしかない。

 

ぼくが暮らしている田舎は、そもそもお金に依存しないで生きていくために特化した環境だった。対して都市は、お金を回して生きていくためにデザインされた環境だった。インディペンデントに独立して生きていくには、地方は最高の環境だ。今ならまだ再生できる。これからの新しい生活は「イエス/ノー」の二択ではなく、ときにはイエス、ときにはノーで、複雑に根を張って束にして生きていくやり方がいい。そうやってゆるやかに抵抗して、社会に飲み込まれずに生きていく。ソーシャルディスタンスは、コロナへの対策だけじゃない。誰かが考えたような「新しい生活」つまり都合よく編集されたカタログ商品を掴まされるな。騙されるな。自分のルーツを持って、それを育てていけば、誰のものでもない自分が開花する。どんな場所でも耕して種を撒いて芽を出し、花が咲いて実りがあれば、生きていく糧になる。

 

大地を耕すことは、瞑想運動でもある。ウンコですら肥やしになるのだから、自然に現れる物事は何かしらかの役に立つ。自分も同じだ。自然現象だと捉えて、自分だけの価値基準を育めば、誰にも盗まれることがない豊かさを手にすることができる。きっと。