いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

世界ぜんたいを幸せにするためのアート

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生きている。緊急事態だから余計に実感する。朝起きて働いて食事して寝る。それだけのことが幸せに感じられる。遠くに行かないから、近くばかりを見ている。

ずっと取り組んできた生活をつくる芸術には終わりがない。生活をつくるということは、何者にも従うことなく支配されることもない、自由に生きる自分をつくることでもある。ぼくが死んだら何か伝わるだろうか。でも死ぬ前にもう少し世の中が美しくなるために努力しようと思う。

ここ最近、文章を書いてもまとまらなかった。やっていることが、ひとつの目的に貫かれていなくて、散らばっている。拾い集めようかとやってみたけど、やっぱりバラバラだった。無理にまとめようとしない方がいいと思うことにした。

説明がつかない異なる事象を自分のなかに持てば世の中の矛盾への免疫を手に入れることができる。そもそも世界はバラバラなのだから。自分を矛盾させて初めて世界の両端から右と左、天と地を「=(イコール)」で観察できる。

 

5月になって草刈りシーズンが来た。桃源郷づくりで、開拓した土地に雑草が生えてきた。今は景観をつくるアートに取り組んでいる。自分からこの道を開拓してきた。結果、北茨城市里山の景観をつくるプロジェクトとしてサポートしてくれている。市は生活芸術を理解し受け入れてくれた。おかげでコロナウィルスに翻弄されることなく制作に没頭できている。その状況がまた、コロナウィルスに直接影響を受けない特殊なライフスタイルにさせている。これもひとつの理想だったT.A.Z.(the temporary autonomus zone/一時的自立ゾーン)だと言える。詩人のハキムベイが唱えた仮想空間で、常時存在するものではなく、それでいて、小さな世界として自立している場を仮想している。(分かりやすい例としてはフェスティバルのような突如年街が出現し、消えて、また必要に応じて実現するもののこと)インターネットや社会的なインフラが整った今、実現可能になった。

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とは言え、していることは側から見ればアートではない。家を直したり、草を刈ったり、最近では炭窯を作っている。これら目の前を美しくする行為のすべてを美術だと提案したい。草を刈れば、そこには国境も超えたグリーンプラネットの姿が現れる。していることは周りの評価や今現在の基準には当て嵌まらないけど、それに倣う意味はまったくない。むしろ既存の文脈から逸れて、新たな概念を作ろうとしているから、今は当て嵌まらない方が正解ということになる。不正解こそ大正解。

 

ずっと明確にしないままにしたけれど、芸術、美術、アート、それぞれについて少し整理できてきた。「芸術」とは範囲が広くて、その意味は芸の術だから、怒りの表現、汚いモノ、理解不能なモノ、映像でも運動でも文章でも音でも、未知なるモノでも、なんでもありで、何でも飲み込むことができる。芸術は気がつきさえすれば至るところにカテゴライズできる。

使い分けとして「アート」とは、西欧由来の言葉で、ギャラリーや美術館で展示することや彫刻や絵画、インスタレーションなど、その文脈に従って制作される形式のこと、と理解してみることにした。だからアートはスポーツのような競技だ。形式がありそのルールのなかで表現を競う。草刈りをしながらこのアイディアが浮かんだ。アイディアは至るところからやってくる。常に捕らえる姿勢でいればこそ。

 

「芸術」「美術」「アート」それぞれを整理して追求すれば、もっと伝わりやすくなる。(だとして英語にしたときこの複雑さをどう翻訳するのかは次の課題にしておく)

そもそもどうしてぼくが芸術を志向するのかと言えば、先に書いたように何でも飲み込んでくれるからだ。もっとも開かれたサイエンスだ。ゴミでも糞でも論理が破綻していても、アートに化ける可能性を秘めている。

アートには世の中の基準とは違ったとしても、自分の基準を世の中に問いかける自由がある。そもそも芸術とは、新しい表現の開拓に寛容なジャンルだと思っている。

だから、こう言い切ることもできる。草刈りは美術だ。極めればそこまでいける。大地というカンバスに造形するのだから。雑草を刈って何かを植える。花が咲いたり、実がなったりする。放置されていた土地が美しくなれば、ランドスケープアートの文脈に合流できる。この現実に働きかける表現が、絵画や彫刻に劣るとは思えない。優れているとは言わないまでも、この行為を芸術へと変換させアートシーンへと投げかけてみたい。現実のアートへ投稿する方法とは、何かしらかの権威に評価されること。それだけのこと。それでも、そこにそうしたスポーツがあるのだとすれば参加する楽しみはある。それを楽しむ人たちがいるのだから。

 

マルセル・デュシャンが便器をアートにしたように、ジョン・ケージが無音を音楽にしたように、生活を芸術に変えてみせたい。

ぼくが「生活をつくる」に拘るのは、宮本武蔵の「戦場が日常であれば日常が戦場になる」にインスパイアされている。生活が芸術になれば、敢えて芸術をしなくても表現は既にしていることになる。生きていること自体が表現だ。ぼくはその日常を通して、生活芸術を表現するための素材を探している。常に創作していれば、あらゆる閃きが芸術に通じる。常日頃、選択したすべてが芸術になる。更に、それらを先の分類に従って「アート」に変換したいのならば、生活の芸術のなかから作品となるアイディアや素材を選別し、磨き、美術館やギャラリーという舞台で発表する。そうして鑑賞され評価され、生活の芸術は世間にアートとして流通する。

 

いま計画しつつあるのは「生活芸術-5th element」5th elementは、火、水、土、木、金、の5つのエレメントで、五行思想のことでもある。友達の音楽家が制作したアルバムに着想を得ている。

いましていることの中から、この5つの要素に従って、作品となるものを選定して、展示できるオブジェとして制作する。展示できるオブジェとは、テキスト、立体(移動させることができ、展示に耐えられるモノ)、絵画、映像、これからを駆使して、生活の芸術とは何かを伝える。

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例えばこうだ。いま、北茨城市里山で炭窯を再生している。山から木を伐採して、薪をつくり、薪を並べて、土で窯をつくり、焼いて、窯を固めながら炭をつくる。これは自然にあるものを利用して、生活に必要なものを生み出す技術の再生。美しいと思う。だから、これがぼくにとっては美術だ。芸術だ。ほかの人からすれば単なる炭焼きかもしれない、だから、アートへと翻訳する。

例えばこうだ。炭窯は大きくて大地の上に作られるから持ち運ぶことができない。そこでアイディアが浮かんだ。炭窯の要領で、小さなピザ窯をつくれば、それなら移動可能なオブジェに変換できるかもしれない。土と火と水と木で作らせたオブジェが美術館やギャラリーで展示される。映像と共に。ワークショップなどで参加たちとパンを焼くこともできる。生きるための芸術として。

こうやってアートを経由して伝えてはじめて、それが芸術だと理解される。ようやくそれが分かってきた。ぼくが理解していることと他の人が見ている景色は違う。当たり前のこと。自分の近くにある大切なことをどうやって遠くへと届けるのか。それができれば、ぼくは少しだけ社会を変えることができる。別の言い方をすれば、ぼくのアートに触れた人を変えることができる。

いましていることは、もはやアートの領域にはない。そもそもアートではないものがアートとして認識されることが愉快で、アートが好きになった。だから自分もその挑戦に身を置いている。

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日常の生活の一部をアートへと変換することは、5th elementの「金」への挑戦でもある。この金とは、お金だけではなく、価値あるモノ、としてもっと広義に解釈したい。つまり、錬金術だ。何でもない日常を価値あるゴールドへと変換する、明日を輝かせるマジック。アートは、そんな奇跡を起こすことができる。万が一にも。そういう奇跡をたくさん目撃してきた。これは脱出でもある。エクソダス。檻のように閉じられた社会から、脱獄するかのように、コツコツと表現を積み重ね、穴を開け、自由へと逃走するゲーム。

 

生きるための芸術は、どんな状況下でも死ぬそのときまで表現が続く。常識の反対側に突き抜けるまで、つまりアウトプットするまで穴を掘り続ける。必要としている遠くの誰かに届けるために。宮沢賢治の言う「世界ぜんたいの幸せのために」それがぼくの仕事だ。