いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

夫婦芸術家の現在地について

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「どうして絵を描くのか」妻にそう質問されて考えた。はじめは絵を描いてそれが認められて世界で活躍できたらいいな、程度の妄想だった。あとは会社で働き続けるのが無理だという限界もあった。将来のことを考えたとき、会社で働いて給料を貰っていても何者にもなれないし、それだったらという現実的な諦めと夢への逃避が入り混じって、想像力を駆使して生きることに賭けてみようと決意した。

だから絵を描くことは、そういう人生のはじまりで原点にある。そもそもはコラージュという表現技法からはじまった。それが発展して紙を切って貼るだけでなく、そこにあるものを利用する技術になって、絵を描く以外にも、家を直したり、土地を開墾したり、炭を焼いたり、和紙をつくろうとしたりしている。そのすべては「生きるための芸術」というコンセプトに貫かれている。

理解のためにもう少し噛み砕くと、ぼくは妻と一緒にアート活動をしている。ぼくたち夫婦の場合は「絵を描く」というよりも「絵をつくる」という表現の方がぴったりくる。絵画という表現形態を追求しているのではなくて、生きるための芸術という活動を追求するために絵をつくっている。

それもこれもコラージュなのだけれど、twitterでもっと一般的に分かりやすい説明をしている人がいた。ギャラリーには、現代アートとファインアートのギャラリーがあって、現代アート系のギャラリーは、作家が所属してマネージメントや作家の方向性なども含めて売り出していく。一方、ファインアート系のギャラリーは作品を販売する。作家ではなく作品=モノを扱うと分類すると分かりやすいかもしれない。もちろん「現代/ファイン」と完全に分類できるわけもなく、ギャラリーはグラデーションのようにそれぞれのやり方で展開している。だとしても作家としてのキャラクターを作り上げていく方法と、作品を作り上げていく二つの方向性があることを説明できる。

これを例にしたのはぼくたちの「絵をつくる」という表現がファインアート的な文脈にあると思ったからだ。

絵をつくって作品として発表することで、その作品を売ることもできるし、生きるための糧にもなる。そして、とてもシンプルに社会に対して芸術家であることを表明できる。

それに対して生きるための芸術は、檻之汰鷲という作家を育てる働きをしている。こっちはより現代アート的な指向性がある。ぼくはギャラリーに所属していなから、それを自分でやっている。もっと言うなら、以前にしていた仕事=マネージャー業を自分にしている。

それらは直ちに販売できるようなモノではない。例えば、桜を植えて景観をつくる「桃源郷プロジェクト」や、廃墟を改修して暮らしをつくる「D-HOUSEプロジェクト」は、何をしているのか見ることはできても、それのどこがアートなのか理解されなかったりもする。作品といっても手に取れるものでもない。むしろこうした表現を美術館やギャラリーに展示できるようにしたとき現代アートになるのかもしれない。何にせよ「生きるための芸術」というコンセプトがぼくたち夫婦の土壌となって表現を育んでいる。生きるための芸術、これは大地だ。

生きるための芸術とは、常に思考し続けることだ。「なぜ生きるのか」という問いに向かっている。それは人間とは何か、社会とは何か、生きることに関するあらゆる考察へと広がっている。だから「生きるための芸術」とは思想であり哲学でもある。

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それではなぜ絵を描くのか。それは芸術家になろうとしてはじめたことの原点がそこにあるからだ。絵という平面世界をつくることを通してぼくは表現すること自体を学習している。作品をつくるという行為は、与えられた命(=時間)を表現に費やすことで心を平和にすることでもある。何かをつくるという行為は、自分とモノとの対話に没頭することで、複雑で混乱した社会から距離を保つバリアを生み出してくれもする。これもまた生きるための技術なのだ。

こうして言葉にしながら考え、自らを理解している。これもまた生きるための技術なのだ。

こうして生きるために編み出された技術の集合体が生きるための芸術になる。それぞれの生きるための技術を探求するなかでの副産物として、その活動報告として排泄されていくのが作品だ。現在進行形の芸術という領域を拡張させるためにオブジェクトとして提出する。つまりアートと生きるを接続させるマテリアルを創出している。それらを道標としてアーカイブしている。このブログもそうだ。

例えばいま、炭窯のなかで人のカタチをしたオブジェを焼いている。これは土器だ。何万年前の人類がしたようなことをしている。それを縄文として再現するのではなく、その行為がはじまったその文脈以前に遡る。ほかには生きるための道具としての、生活するための器もありえる。楮を採取した。和紙をつくって白を手に入れ、そこに自然から色を採取して絵を描くことを企んでいる。薪ストーブの煤とイノシシから採取した膠で黒色をつくることも考えられる。採取と計画、イメージと表現を検証して、行動する。"Art is doing word"だ。

「生きる」ことに真っ直ぐ向き合うほどに歴史を超えて原始まで遡る。アートという西洋の文脈も日本人としての芸術的な思考もすべてを飲み込んで源流へと回帰する。そんな表現に到達してみたい。それらは決して技巧的でも美しくもなく、それでもそれが存在しなければ生きていけなかっただろう必然性に満ちている。圧倒的な存在。そういうモノをつくってみたい。

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この景観。これが作品だ。大地のうえに自然を利用して作られた炭窯。

一緒に活動してくれる妻には感謝しかない。ぼくひとりではとても表現できない世界観をカタチにしつつある。あと少しあと少しと、行き先の見えない旅に誘って不安にもさせてしまうかもしれない。けれど活動と作品が認められて世界を飛び回るという夢はいまも見続けている。何のために? この時代に「生きる」という生命活動、その原点に、いまを生きる人々を目覚めさせるために。

そしてイメージしている。作品を売るためではなく、生きるための芸術を伝えるために展示してみたい。