いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自分で考えて行動する。その行動に対価がうまれて生き延びる

もうすぐ2019年が終わる。2020年になる。そんな未来のことを子供の頃には想像もできなかった。自分がどんな風に生きたいのか、どんな職業にも興味を持てない子供だった。世の中の職業的なことに特技がなかったから、会社員という漠然とした選択肢しか浮かばなかった。勉強以外なら、映画やアニメ、漫画や小説が好きだった。中学生になって音楽が好きになって、ミュージシャンになりたいと思った。音楽は好きだけれど、残念ながら、売れる音楽には興味がなかった。聴いたこともない音楽ばっかり追い求めていた。

 

ぼくは今、芸術家を名乗っている。職業は芸術家だ。中学生の自分が知ったら驚くだろうけれど、ここにたどり着くまで時間が必要だった。つまり、いろいろやってみたけれど、最終的に自分でやるしかない、という結論に達するまでの時間が必要だった。イベンターだったり、企業で働いたり、建築現場や、広告代理店、運転手、マネージャー、ラジオの構成作家、いろいろやった。

 

今のところの結論は【自分で考えて行動する。その行動に対価が発生して生き延びる】

とてもシンプルなことだ。高みを目指さない。目的は生きることだから。上へ上へと登っていくより、下へと降りていく。水を手本にしている。水は、低い方へと流れていく。その流れが大地と生命の渇きを潤している。自分が向かう先には喜びが溢れる。水が大地を潤し花を咲かせるように。そうありたい。「働く」の語源「側(はた)を楽にする」のように行動する。

自分を楽にするのではなく、周りを楽にする。そのために自分を動かす。それが「働く」だ。お金にならなくてもいい。むしろ、ほとんどの人は、お金になることを最優先するから、お金にならないところに余白がある。親切とか感謝とか愛。自然にそういう気持ちが溢れることをしていたい。

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廃墟を改修して家を作っている。コンクリートで土間を打って、サッシや建具を使って、サンルームのような部屋を作った。お年寄りが遊びに来やすいように、段を極力減らして、広くスペースを取った。薪ストーブを入れた。

薪ストーブを使ってみたら、薪の消費量が多くて驚いた。来年は薪をたくさん用意しなきゃ、と考えていたら、造園屋さんが、薪になる木を持ってきてくれることになった。イメージしたことがカタチになっていく、そう展開していくときは大丈夫。

 

造園屋さんは、3月に桜を植えに来てくれる。アトリエがある地域、茨城県北茨城市の山間部のほんとに小さな集落に、桜を植えて、桜を育てながら、この地域の環境を保全していく準備が進んでいる。北茨城市とぼくたち夫婦が協力して進めている。

きっかけはスミちゃんというお婆さん。自分が死んでも、この地域が美しく残って欲しいという思いから桜を50本、自費で植えた。まだ小さな桜。咲くまでにはあと3年。10年すれば満開の桜が咲く。スミちゃんが地域に残すライフワーク。働き。

 

ぼくはアート活動をしてきた。アートとは何かを考え、毎回、新しい表現を追い求めてきた。コラージュ、空き家再生、ダンボールでつくる立体パピエマシェ、次第に行動と表現を一致させるようになった。それは芸術が空想の世界に閉ざすのではなく、現実に働きかけて、現実そのものを変える、という試み。ペットボトルの筏は、その代表作品と言える。

美術館やギャラリーに作品が飾られるのは名誉なことだし、評価や理解されることは嬉しい。けれども、美術館やギャラリーに評価されたり、飾られないから、その表現に価値がない、ということではないと思う。美術館やギャラリーは結果であって、到達し完成したモノが収蔵される。アートでも音楽でも、目的に達しないからと、それで挫折してやめてしまう人がいる。やめることも選択のひとつだけれど、それを苦にしたり、未練を持つなら、何のためにやるのか考えてみたらいい。ぼくは、していることそれ自体が痺れるほど楽しいからやっている。

だから、評価されることを目指す必要はない。それよりも、日々の中で、どんどん作品を生み出して、アートとは何か追求しながら表現していけばいい。だから、そのために北茨城市に場所を作った。ここがあれば、アートは生まれ続ける。そして結果だけが残る。

 

今、自分の目の前には里山がある。草や木や自然ばかりが目の前に存在している。そこには作品のアイディアが詰まっている。自然環境が作品の素材として広がっている。

ランドスケープ」この言葉には風景という意味だけでなく、その土地の資源、環境、歴史、水、土、大気、動物、植物、などを含む概念としての意味がある。まさにランドスケープを前にしている。

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この小さな集落をこっそりとキャンバスに見立てて、ランドスケープ・アートを表現してみたい。「こっそり」という言葉を使うのは、あからさまに表現するのではなく、それこそ、環境に溶け込むように整備していきたいと考えている。それには時間がかかる。植物は1年を通して成長するし、樹木であればもっとかかる。絵を描くように、環境を整備してみたい。春夏秋冬。何回も繰り返し、大地と自然と対話するように暮らす。これが今、目の前に広がっているアート作品の構想だ。生きるための芸術とは、そういうことだ。人生を通して表現できるテーマに出会うこと。

 

自分がやりたいと考えたり思ったりすることは、社会の出来事と比較すれば小さなことだし、意味がないように感じることもある。けれど、それは逆に誰も考えてなかったり、誰もやろうとしてないから、小さく見えてしまうだけだ。ぼくは、ずっと、見たことがないモノを追い求めている。今から思えば、子供の時もそうだった。もっと面白い漫画やアニメ、映画を探していた。でもそんな職業はない。だから、誰かが作ったモノではなく、いつからか、見たことのないものを自分で作るようになった。つまり職業も作っているんだと思う。たぶん、それが自分の表現の原点なんだと思う。ないものを作ること。

見たこともないランドスケープを作りたい。それが、ぼくのライフワークかもしれない。