いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

暮らしをつくる冒険

「生きる」という言葉にすると、当たり前過ぎて相手にされない現象に向き合っている。その取り組みをどう呼べばいいのか分からなかったので「芸術活動」に分類している。自分のなかで。だから哲学でも文学でもいい。文化人類学とか。けれど、アカデミックな場所にもいないし専門家でもないし研究者でもないから何も名乗りようながない。野良猫と同じくぼくは、その辺を活動のフィールドにしている。

とりあえず「生活芸術家」なる肩書きを作ってみた。生きるための活動が生活だから、生活をそのものをつくる芸術家ということだ。これが本だとしたら、みなさんを生活芸術というフィールドに案内するべく道を丁寧に説明するところだけれど、ここ数日、自分のなかで起きた変化について書くところからはじめてみたい。

生活芸術を茨城県北茨城市里山で実践している。廃墟をリノベした家に暮らし、井戸水で薪で風呂を沸かし、バケツをトイレにしている。身の回りのモノを利用して暮らしを作った。やってみれば慣れてみれば、ここには不便さも貧しさも感じることはない。むしろむかしの人に比べればずっと快適に暮らしているだろう。

ここは限界集落と呼ばれるような土地で、見渡すところ多くが耕作放棄地になっている。この50年くらいで地方の山間部の魅力は底をついて若者たちは街へと出て行った。そうして徐々に土地の面倒を見る人も減っていった。だからぼくは妻と管理を放棄された土地の草刈りをして景観を作っている。伸びてくる雑草を短くする作業はさながら大地の美容師だ。

ぼくのところに小水力発電をやらないか、という話が来て、イメージするに地域にとってよいと感じて、何人かの人に相談してみた。水には水利権があって、とくに田んぼをやっている人たちはその流れを大切にしている。そのむかしは、田んぼの水を盗み合うようなことも多かったらしい。

身近なお年寄りに相談したら「コンセントがあっぺ」の一言で片付けられた。地域資源を利用して電気をおこすなんて素晴らしいのに。と心で思った。何人かに話をするうちにあることに気がついた。ぼく自身に小水力発電を推すチカラがないことに。なぜなら、ぼくは土地も持っていないし、田んぼもやっていない。小水力発電が必要かどうか決めるのは土地を持って田んぼをやっている人たちだ。

そう気づいて改めて考えてみると「小水力発電がよい」という発想が誰にとって良いことなのか分からなくなってきた。この地域に暮らす人たちは電気に不自由していない。むしろ小水力発電をやろうとすることで地域に波が生まれる。当然、賛成反対の軋轢も生まれる。

社会にとってよいこと、地域が活性するなどのスローガンは耳馴染みはよく聞こえる。けれども「社会」も「地域」もどちらにも顔がない。小水力発電をやったらいいと考えていたけれど、それをやって喜ぶ人の顔が浮かばなかった。ぼくはいつの間にか、自然エネルギーを使うことが正しいことだと信じていた。自分がそう思うことは自由だけれど、それは小さな正しさであって、また別の場所にはまた別の小さな正しさがあることを忘れていた。

例えば、除草剤ひとつにしても、大問題になったりもする。使うこと自体を批判する人もいる。けれども、草刈りを日常にしている身としてはそれは使い方次第で、必要なものだと思う。実際、ウチでも使っている。最初は嫌だと思っていた。自然を破壊すると。けれども人間は自然を切り拓いて生きてきた。自然を壊さなければ人間の暮らしは成り立たない。いつか批判される物言いかもしれない。

秋に瀬戸内海の島に招待されていた。正確に言うと企画を提案していた。何かやりませんかと声を掛けてもらって。スナメリという小さなイルカがいて、舟を作ってスナメリを探すという企画を出していた。ところが、唐突にサウナを作りませんか、という話に変わってしまった。たぶん、単純にサウナが欲しいのだと思う。だとして、ぼく自身は瀬戸内海に行くきっかけは無くなった。それならそれでいいと思えるようになった。瀬戸内海に行くことが目的ではなく、こういう遣り取りをして何かを考えたり感じたりすること、それ自体が生活の一部なのだから。

水力発電もそうだ。そのことに関わり動いたことで、今までとは違う眼差しを手に入れた。ぼくたちを衝き動かす欲望はそこかしこに蠢いていて、ほんとうに簡単にぼくらは憑依されてしまう。瀬戸内海の島に行く楽しみは舟を作ることだった。だから、舟を作ればいい。今いる場所で。小水力発電に関して言えば、何かとてつもなく大きないいことができそう、ぐらいの期待だったのかもしれない。もしかしたら別のカタチで、また再浮上してくるかもしれない。

自分自身から沸き起こる活動意欲、それこそが「生きるための芸術」の進むべき道だ。それはとても小さな自分が見ている世界をつくること。誰かの依頼ではなく、自分の内側から起こるなにか。それは自分のためというよりも、自分を含めた周辺環境を存在させるための生存本能から来る、野生的な衝動なのかもしれない。誰かの依頼仕事はもちろんやるし、やらなければ生きていけないけれど、それ以上に自家発電するように自分がやっていることが気がつけば仕事になっていた、そういう活動の仕方をいましている。仕事にならないことがある一方で、仕事ではないようなことが仕事になっている。このパラドックスこそ正常なのかもしれない。

 

"正体不明の先見の明を、盲目でありながらしっかりと、ともに形象をなすものが予め形象をなしていく過程を"

「動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある」


読んでいる本

「コヨーテ読本」管啓次郎

「身ぶりと言葉」ルロワ=グーラン

「動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある」

ジャック・デリダ