いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

利用するのか、依存するのか。ウンコから考える社会からの独立。

「うんこ」をどうするのか。それが問題だった。暮らそうとしている廃墟には、トイレもなければ、水道も下水道もない。この集落まで配管されていないから地域の人たちは、井戸水で生活している。トイレは、汲み取りか、浄化槽を入れている。浄化槽は快適だけれど何十万円もかかる。年に何万円支払うランニングコストもある。汲み取りトイレは、臭いの問題がある。だから、第三の選択肢としてコンポストを選んだ。(*コンポストとは生ゴミ腐葉土のなかの微生物のチカラを借りてつくる堆肥のこと)

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youtuberのモーリー氏が、発見したコンポスト用のバケツに糞とオシッコをして、その上に腐葉土をかけるというシンプルなやり方を拝借した。コンポスト用のバケツは、水分だけが下に溜まるようになっていて数日したら、蛇口を捻れば、水分だけ取り出せる仕組みになっている。糞と尿を混ぜて放置しないことが悪臭を解決するポイントらしい。

妻のチフミも半信半疑だったけれど、使ってみると、ほとんど問題なく、使用後は蓋をして置けるので臭いもない。腐葉土のなかの微生物が分解してくれるのを待てばいい。バケツは10回もしたら満杯になるので4個をローテーションで使うことにした。

 

「うんこ」どうしようか考えはじめた今年の2月頃、友達が野糞の達人に会ったと教えてくれ、本も出版しているらしく読んでみた。作者の伊沢さんは、環境問題に取り組んでいるとき、そもそも人間自体が環境問題だということに辿り着き、そのアクションとして野糞をするようになった。野糞をしてティッシュと埋めると、数ヶ月後にうんこは土に還っても、ティッシュはそのままだったことから葉っぱでお尻を拭くようになったそうだ。

うんこについて最前線の取り組みをしている伊沢さんに話を聞きたくて、3月末に開催されるフェスで対談を予定していたのだけれどコロナウィルスの影響で中止になってしまった。

友達に伊沢さんと野糞の話をしたら「俺は野糞とか反対だな。化学物質とかあるし」と言った。

「そもそも自然に還せないような物質を身体に取り入れてることが問題なんじゃない? 伊沢さんのメッセージはそういうことも含まれると思うよ」と言うと

「いやー、でもうんこの話は聞きたくないかな」とシャットダウンされた。

ぼくもずっとそう思っていた。けれどもトイレがない環境に暮らして向き合ってみると、誰かがこの問題を解決してくれているから、避けて生きていくことができると分かった。

つまり、東京でうんこが処理されている事実には、想像も絶するほどの技術がそこにある。想像もできないほど大量の汚物を浄化するシステムが働いて生活に還元されている。たぶん、そんな話は聞きたくも知りたくもないと思うかもしれない。

だけど、ぼくは妻と二人分の排泄物を自分で処理できるようになって、ようやく自然の循環に参加できるような気がする。自然の側に参加するということは、社会インフラから独立するということでもある。

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野菜を作って食料を手に入れることは究極的には、消費を生産に変えることになる。家を身の回りの素材で建てるかつての建築方法は、社会というよりも地域と自然に依拠していた。水道がないところは、井戸を掘ったり山の湧水を利用して、それは社会インフラと切断され、むしろ自然に接続することになる。

コロナ以前と以降で、何かが変わるなら、きっと社会インフラから独立することがその分岐点になる。社会インフラを利用するのか、依存するのか、その二択は社会での立ち位置を大きく変える。

できるだけ、どんな場所でもどんな状況でも生きていける人間でありたい。これはもう、アートどうこうの話ではなく、人間としてどう考えて生きていくか。ぼくはその話をいろんな人としてみたい。