いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きる つくる 働く4

ヨーロッパとアフリカの旅から帰ってきて、中部地方の空き家を転々としながら、日本の暮らしを調査していたとき、住所不定で不安定な生活をしているよりいいだろうと友人が「北茨城市が芸術家を募集している」と教えてくれた。それがきっかけで北茨城市に芸術家の地域おこし協力隊として移住することになった。芸術家として雇われるとは、どんなことなのか分からなかったので、タイムカードを押すような生活だったら辞めようと思っていた。

北茨城市は、明治時代に日本美術の基礎をつくり「茶の本」の著者として知られる岡倉天心が拠点にしていたこと、シャボン玉などの童謡詩で知られる野口雨情が出生した地であることから「芸術によるまちづくり」を推進していた。

市にとっても芸術で地域活性するのは初めての取り組みで、そもそも芸術とはどういうものなのか定義も曖昧だから市は「自由にやってください」とぼくたちを北茨城市の大地に開放してくれた。おかげで40歳を前に会社を辞めて芸術家になると旅に出た夫婦が、芸術家として社会に受け入れられることになった。

最初の取り組みは「築150年の古民家を活用しませんか?」という相談だった。そのプロジェクトが始まったとき、庭で果物が採れたらいいなと桃の苗木を植えた。果樹があちこちにあって散歩しながら果物が食べれたら、ここはまるで楽園になると、チフミと笑って話した。植えた桃の木は三年間ほとんど成長しなかった。もう枯れてしまうのかと思ったけれど、ついに今年実がなった。そして想像した楽園が生まれようとしている。

ぼくたち夫婦は、築150年の古民家をアトリエ兼ギャラリーに改修した。この古民家がある地域は、いわゆる地方の限界集落で、2km四方に11世帯が暮らしている。ここは地元でも誰も行かないような場所だった。お店もないし親戚でもいない限り足を運ぶ理由がない。日本にはそんな地域がたくさんある。「里山」と呼ばれる、切り拓かれた自然に抱かれてかつて人間が生活してきた場所だ。

ぼくはこの地域を桃源郷と名付けた。桃源郷とは中国の「川を下っているときに迷い込んだ村に暖かく迎え入れてもらい一晩の宿と食事を世話してもらい、まるでひと昔の前のような村だったのに、その心地よさが忘れられなく、再びその村を訪れようとしてもみつからなかった」という説話に由来する。

この地域は、都市に比べれば昭和のあるときから時間が止まっているような里山だった。現代では、こういう場所を「何もない」と表現する。この何もないの反対側には「すべてある」と表現される都市がある。けれども「何もない」と言っても無なわけじゃない。むしろ、里山には都市にない森や川や畑、田んぼ、真っ暗な夜、虫や鳥、動物たちがいる。つまりどこまでも自然が広がっている。

アトリエにしている古民家には庭がある。この家の縁側に座って眺めたとき、夏になって雑草が溢れるほど生えてきたとき、ぼくは「庭」という存在に気が付いた。庭とは人間と自然の境界。中間だけれど点ではない。グラデーションする空間。庭は家でも自然でもない。人間が作り変えた自然だ。自然を素材に並べ替えることで、広がっていく自然に調和させている。家の外であり自然への入り口。ぼくは、この古民家の縁側から眺める景色にこの地域を拓いて暮らしてきた先人の姿を重ねた。

庭とは控えめに言ってもその土地の環境が育む芸術作品だ。そのままの自然よりも人間の手が入った自然に美しさを感じる。その意味で芸術とは人間の手によるものに限定されるのかもしれない。こういう曖昧な境界線をみつけるのが好きだ。ぼくはすぐにアートだとか芸術と言葉にするけれども、妻のチフミは「別に芸術じゃなくてもいい」という。確かに芸術にカテゴリーすることで失われることもある。けれどもぼくは芸術によってこの社会に居場所を与えてもらったから、芸術を通して社会に還元したいと思う。何をだろうか。価値、意義、いや、生きる楽しみだと思う。だからぼくが芸術と呼ぶ多くのことは、一般的には芸術ではなかったりする。

話が逸れたけれど、ぼくたち夫婦にとって、それが芸術であるかどうかは問題じゃない。やってみたいかどうか。それだけだ。ぼくたち夫婦は、この古民家を通じて「庭」を手入れするようになった。まずは種を蒔いてみた。畑ではない場所を開拓して、土を耕して、見様見真似でそれらしく畑をつくってみた。空き地はある。だから食べ物が採れたらそれがいい。そういえば、数日前にこんなことがあった。スーパーで買い物をしていたら近所のお年寄りに会って、挨拶をしたら買い物かごをジロジロと観察されて「トマトなんか買うのか」と言われた。なんだろうと思ったら「トマトならたくさん成ってるから持って行ってやるよ」と後日、トマト、ズッキーニ、カボチャを届けてくれた。これは土地に余裕がある地方ならではだろう。だからと言って、種を蒔けば芽が出て収穫できるほど、簡単な話じゃない。それだったら人類は何も苦労しなかっただろうとも思う。

開拓した畑は、出来が悪かった。だから知る必要があった。畑は土でできている。土にもいろいろ種類がある。食べ物を育てるには土に栄養が必要で、その栄養とは微生物のことで、微生物は、有機物、つまり葉っぱとか虫の死骸とか、生き物が分解されて土に還る作用のなかで活動することを知った。微生物の活発な土がよい土ということになる。陶芸で使う粘土のねばりも微生物の活動らしい。

話のついでに、いま暮らしている家は元々廃墟だったからトイレがなかった。どうしようかいろいろ検討した結果、蛇口のついたバケツにおしっことウンコをして、水分のおしっこは蛇口から出して、ウンコは、おが屑をかけてその上に腐葉土をかけて蓋をしている。このウンコを分解するのも微生物の働き。醗酵すれば嫌な臭いはほとんどない。バケツを3つローテーションにして、全部がいっぱいになったら、ひとつを土に埋める。数か月してその土を畑に使うことになった。それがどこからやってきて、どこへいくのか。たとえウンコにしても、社会の中でその循環の入り口と出口を捉えることが自分で責任を持つライフスタイルのカギになる。どこかに消えていくウンコよりも、自然から得たものを自然に還す、この清々しさ、ここまで書いたけれど、未だ言葉にできない。とにかく社会から独立して自然のなかに生きている実感がある。

ぼくの価値観は反転している。みんが住みたいと思う場所は、地価が高騰してすべてが高い。誰も住みたくないような場所は、限りなくゼロ円に近い。価値がないところには情報も貨幣も集まらない。だから誰も行かない場所には何もないことになる。ところが何もないところには自然がある。自然には生きるために必要なものがすべて揃っている。自然は働きかければ、分け隔てなく恵みを与えてくれる。情報も貨幣も集まらないところには、欲するものが少ないから欲もない。だから素晴らしい古民家も使い道がなく放置されていた。捨てられているものは無欲だから純粋でいい。奪い合いも競争もない。

言いたいのは、これだけ人間社会が発達してあらゆることが便利になって、未だに都市か田舎かと議論しているなら、両方を愛していると抱きしめたらいい。ぼくたちには、それをするだけの社会環境は充分整っている。

友達はそれを「AかBかの議論でBを正当化するためにAを批判している時間が長すぎる。だったらB最高って話の方が愛があるし共感できる。」と言っていた。

まず、いまある条件を受け入れることだ。何があるのか。あるものでなんとかしようとしたとき想像力が働き、消費は生産へと変換される。ここにないものを外から持ってくるのではなく、ここにあるもので代用して事を済ませたとき、ぼくたちはその環境の一部となって生きることができる。

ぼくが今いる場所に何があるのか。桃の木を植えてから3年間、この土地に向き合って、この土地にあるものでどうやって楽しんで生きてくのかイメージしてみた。チフミはこのやり方を「ココニアル」と名付けた。外からやってきた者がある土地を支配する「コロニアル」の反対の意。

あれから3年経って、アトリエがあるこの地域に梅の木と桜の木が植樹されることになった。日本中にある何もない田舎を活性化するモデルとして、耕作放棄地や休耕田が提供され、桃源郷づくりが実践されることになった。何十年後かに、この里山の景観が何かを伝えるかもしれない。

価値がないこの地域の土地は、さながら共有地となった。放置されていた所有地は、桃源郷にするために共有地となった。控えめに言っても革命が起きている。ぼくたち夫婦は、所有者に声を掛けて、花を植えたり、野菜を育てたり、木を植えている。

都市と地方、芸術と生活、生きること、働くこと。経済と自然。ぼくらを振り回すいろんなことが、この小さな地域では、ぼくらを活かすために機能している。ぼくが田舎にいる一方で誰かが都市で活動している。二者択一の対立軸の真ん中に立って、どちらかの選択を迫るのではなく、どれもが少しづつ、ぼくらの生活に影響を与え合い、ぼくらもそのどれに対しても働きかけつつ、たぶん、土のなかの微生物のように活動していくことが必要なんだと思う。それにはコンクリートを剥がして土に戻する努力や、お金にならなくても誰かのために何かをすることや、それこそ野菜を育ててみるという小さな活動が、ぼくたちの生活をずっと楽しくしてくれる。ぼくは、それを「生活芸術」と呼んでいて、これを伝えるためにこの文章を書いている。それは人の生活が木のようにあらゆる活動に枝葉を伸ばし、それは360度展開していて、ひとつひとつのカテゴリーに分類できない。どれもが影響し合っている。だから経済という軸で物事を切り取ってしまえば、ぼくたちの生活はとても貧しいものに様変わりしてしまう。

 この小さな山の谷間にある小さな集落では、豊田澄子さんという80歳の元気な女性を中心に桃源郷がつくられている。スミちゃんはぼくたち夫婦にこう言う。

「お前らは絵を描け。それが仕事なんだから。おれは野菜を育てる。俺は絵を楽しませてもらって、お前らはおれの作った野菜を食べる。それでみんながサンキューベロマッチ。」

古くて新しい経済がこの態度のなかにある。これが何なのか、ここに言葉を費やす価値がある。