いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

身の回りにあるもので充分に生きていけるのだとしたら、ぼくたちは何を望むのだろう。

f:id:norioishiwata:20191231095548j:image

ぼくたちは、うまれて死ぬまでの中間に生きていて、ゆっくりと死へと接近している。今日という1日が朝から夜まで回転するように、月火水木金土日とぐるぐると、春夏秋冬と季節が過ぎて、そうやって今年から来年へと時は移り変ろうとしている。ぼくがいつ死ぬのか、まったく予想もできない。誰もそんなこと分かりはしない。だから、1日1日を丁寧に作っていきたい。

見渡すと自然が溢れる環境にいて、木々や草、風や太陽に、鳥の声に包まれるように暮らしている。いろんな縁が重なって、来年もアトリエを作った北茨城市に暮らすことになった。「水もないところにどうやって暮らすんだ」ともっと計画的に考えろ、と言われたりもするけれど、どうやったらできるのか分からないけれど、やってみることに意義を感じるし、直感が閃いて、そうすると決めたら、物事はとてもシンプルに条件を整えてくれた。どうなるか分かることに向かって人生を進めても、安定はするけれど、むしろぼくは、失敗も含めて人生の可能性を実験して、競争や高みを目指すような生き方に馴染まない人のために迂回路を開拓していきたい。

生きるための芸術、社会彫刻、サバイバルアート、生活芸術、とコンセプトを作って活動をしてきて、どれも同じことを別の言葉で別の角度から説明していて、図にするなら、きっと四面体で中心にはコアがあって、それぞれの言葉は中心から花が咲くように意味を広げている。知りたいのは、それからの概念の中心にあるコアに、どんな名称が与えられるのか。

それぞれの言葉の方向性への活動は、継続しながら、より深く掘り下げたい。より自然に接近していきたい。「都市と自然」という対極があるなら、より自然へと自分を踏み込ませて、そこでの活動を都市へフィードバックさせたい。本も書きたい。目の前にある環境に対して出来るだけの取り組みをしたい。具体的には、陶芸をやりたい。より原始的な方法で。今年の春、バリで滞在したとき、偶然にも粘土をみつけて、焚き火で土器を作ってみた。それは1にも満たない成果だったけれどはじめる足掛かりにはなった。

f:id:norioishiwata:20191231095625j:image

火と土と水と風、自然のエレメントから生まれるモノが美しくない訳がない。どう考えても美しい。やりたいことは、既存の陶芸ではない。粘土を買ってきたり、電気窯やガス窯でやっても、そこにはぼくがやる意味がない。なぜなら、目指しているのはサバイバルアートであり、生きるための芸術であり、生活芸術であり、そのコアを表現するツールとして陶芸をやりたいからだ。

たぶん、いまは、これから先10年くらい続く活動のスタート地点にいる。来年から新しい物語がスタートする。これまでは「いるべき場所」を探す冒険だった。もちろん、未来は分からないけれど、ぼくたちは、未来を想像することはできる。地球とか日本とか私たちのような大きな主語の未来ではく、小さな個人の未来なら作ることができる。それは計画すること、予定すること。もっとも単純な未来の作り方は、すぐに始めること。数秒後、数分後に。そうすれば未来は変わる。

 

食べ物を作りたい。畑をやるのだけれど、三年目になるけれど、驚くほど下手だ。頭の片隅に自然農があって、放置しても収穫できる野菜のイメージがあって、でも現実はそんな簡単な話じゃない。あれは何かの奥義で合気道みたいな技だ。だから、まずは食べ物をつくるという目標にする。北茨城市の山側では、小規模な畑をやっている人がたくさんいて、みんなが採れた野菜を贈与し合っている。これは驚くほど豊かなことだけれど10年もすれば、その数はずっと減るだろう。地域では当たり前のことで、ビジネスや経済活動未満のこれらの小さな畑が、地域の自然環境や景観に与えている影響は、評価されていない。これは目に見ないこの地域の文化遺産だと思う。だから学んでいこうと思う。この豊かさを。

f:id:norioishiwata:20191231095656j:image

2013年から始まった芸術を巡る冒険、つまり「夫婦40歳を前に退職、芸術で生きていけるのか」は、45歳にして、芸術で生きていけるようになった。ぼくが試みたことは、誰にもでもできること。どうやればできるのか考えて行動して、トライ&エラーを繰り返して、諦めることなく続けるだけだ。けれども、いつからか、石渡さんは特別だからとか才能があるから、と言われるようになった。そうやって理由をみつけて諦めることもできる。同じように諦めずに続けることもできる。お金や評価を目的にしなければ。

次は、どれだけ野生に帰ることができるのか。もちろん、妻チフミもいるから、それなりの快適さを保ちながら、自然と共にある暮らしを模索しよう。人間と自然と生活文化のバランスを行き来しながら、表現をしながら生きていくんだということだけはっきりしている。2020年は、新しいサイクルのはじまりになる。