いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

まとまらない考えを書けばそれが物語になる。

考えが巡ってアウトプットできていない。けど、はっきりした目的がある。さらにけれども、それは望まれてないんじゃないか、もっとよい方法があるんじゃないか、と頭のなかで検討してしまっている。ここはそんなぐるぐるな過程も書けるスペースなので、そのまま記録しておく。

目的は人生をつくること。ぼくは人生を作っている。そこには何かしらかの技術がある。それは答えではない。人生は人それぞれ異なる。歩む道も経路も違う。だとしても、絵を描くことに何らかの技法があるように人生にもそれがあり得る。

ところが生き方をつくるとか自分をつくる、と表現すると途端に胡散臭くなる。押し付けがましさがある。だからタイトルからして検討が必要だと考えてしまう。ぐるぐる。ジャンルでいうなら哲学だろうか。けれども哲学も、ニーチェがとかドゥルーズがとか、誰かが書いた言葉を引用して、それを権威の看板として掲げて、実際の人生を作ろうと企む哲学者はあまり見たことがない。同世代の思想家・森元斎さんは実践している。生きている哲学だ。

見渡してみると人生をつくる、というコンセプトは避けられているように感じる。ソローは「森の生活」でそれをやってみせた。多くの本は自分以外の、それを構成するモノコトについて書いてある。ぼくにはそれが書けない。

去年辺りからミシェル・フーコーを読み漁っている。なぜならフーコーがたどり着いたのが自己に関する技術だからだ。こうやって名前を挙げて引用するのも、それが嫌なんだけれどここでは許してもらいたい。過程の記録として。

現代社会では、アートはもっぱらオブジェにしか関与しない何かになってしまい、個人にも人生にも関係しないという事実に驚いています。アートが芸術家という専門家だけがつくるひとつの専門領域になっているということにも驚きます。しかし個人の人生は一個の芸術作品になりえないのでしょうか。なぜひとつのランプとか一軒の家が芸術の対象であって、わたしたちの人生がそうでないのでしょうか。

1983年4月バークレー大学で行われた対談

 

そう。まさにそう。生きるための芸術を実践してきたのはその疑問に答えるためだった。ぼくは自分の人生を使って実験してきた。それができることが分かったところで、また別の問題が明らかになってきた。

ほとんどの人が人生に向き合いたいとは考えていないという問題だ。この課題、この壁を越えることが次の制作のテーマになる。どう表現していくのか。いましていることを整理しながら展開していく、ギャラリーや美術館に展示するように展開する、展示という技法を駆使して、いかに人生に向き合うか、という問題をポップに提示できるか、だ。ポップとは軽さだ。

 

以下にぐるぐると巡った思考を残しておく。

 

6月23日

雨が降っている。

草や木々はしっとりと濡れて緑がぜんたい潤っている。空気も濡れている。空から地面に水滴が落ちて流れる。雨の音がときによって強くなり弱まる。

雨が降るとそとの仕事は休みになって、ぼくは家のなかで仕事をする。展示の準備で散らかった木工室を片付けることにした。片付けながら板を見つけて、本棚を作ることにした。いまある本棚からは溢れた本が山積みになっている。

木工室を掃除するとすぐに板は見つかった。適材あり。本棚を作ってみると、本が並んだ。本の背表紙が見えると安心する。頭のなかと繋がっていて、本の中身を思い出せる。展示が終わって次は本を作りたい。

次の本の構想とイメージはある。だけどまだ文体とかタイトルとか貫いた世界観が決まっていない。本棚を眺めて考えた。本は「生きるための芸術」の第5巻だ。いや小説にしたいかも。

ぼくは人生を作っている。作品を作りながら。作品をつくると現実の世界も作られていく。生活と芸術が繋がっている。リンクしている。だからぼくは作品をつくる。くらなければ自分が死んでいく。生活と芸術についての本が書きたい。ところが本というものは自分自身について書くものじゃないらしい。自伝を除いて。ぼくの本棚にも生きるための技術について書いた本はソローの「森の生活」と山尾三省の「森羅万象の中へ」ぐらいしか見当たらない。

ぼくが成功していれば、その秘訣は本にしやすいかもしれない。でも成功するってことは生活や人生にとってそれほど重要なことじゃない。なぜならそれは結果だから。何かをした後に成功が付いてくる。生活や人生は結果じゃない。人生の結果は死だ。人生とはいつも途中。だから成功するとか、うまくやるとかの競争とかじゃない。歩くことや呼吸するみたいに、当たり前の無意識のうちにやっているようなこと、それが生活だ。けど、刻々と生活というものの質もカタチも社会や時代の流れと共に変化していく。だから「生活をつくる」という実践をみなさんに知ってもらいたい。さっき書いたように、これは優劣じゃない。勝ち負けもない。生きるとは生命活動だから。

生きるために必要なものは何か。

夕方来客があった。

名前を教えてくれない先輩。謎の人。電話番号も知らない。突然現れる。今日は携帯電話を供養するアイディアを披露してくれた。「多くの女性が携帯電話、つまり携帯のSNSでロマンス詐欺に遭っている。何百万円も失っている。騙されて。そもそも顔も見てないのに信じてしまう。それは信じたいからだ。携帯を信じている。信仰している。それは間違いだ。持ってはいけない。持たない方が幸せに決まっている。携帯は人間を不幸にする。だから携帯を供養する神社をやるのです。ハンマーと石臼で粉砕しましょう。そして携帯による不幸な話を聞いてあげるのです。きっと日本中から人が集まる。ここは名所になります」

先輩はそんな話をして去っていった。三か月に一回ぐらい現れる。

ぼくは試されている。一体何を?と思うかもしれない。常識を試されている。名前も名乗らない知らない人は危険なのか。危険とは何なのか。家のなかで一緒にコーヒーを飲む。もう何回も来ているから知らない人じゃない。名前を知らないだけで。名前で何が分かるのか。

ぼくはこんな本を知っている。

お祭りのとき浮浪者が家の扉に寄り掛かっていたのを追い払うと、それが神様で呪われる話がある。ラーゲルクヴィストという小説家の「巫女」だ。

雪降る日に帰り道に倒れている人を連れて帰って、暖を取らせると次の日から仕事を手伝ってくれ、すっかり弟子として成長して、あるときその彼が神様だと分かる。トルストイ のタイトルは忘れた物語だ。

なにが言いたいかって、何かをしなければならないと信じ込まされているけど、その何かをするってこと自体が何なのだろう、って話だ。必ずしも高い方がいいってわけでもない。低い方がよいこともあるし、待つことが必要なときもある。何もしないことにだって意味があるときもある。

 

6月26日

とにかく書く。記録する。なぜならそれが歴史だから。残るかどうかではなく、記録していった先に歴史が生まれていく。記録されたものだけが歴史になる。ラスコーの壁画に絵を描いたからそれが今に伝わる。ソクラテスのエピソードを弟子たちが記録したから、それを知ることができる。

アーティストになる。それが目標だった。アーティストとは何か。それ自体があまりに曖昧だ。表現者だ。表現者とは何か。モノをつくる人だ。さらにものをつくる他に自由な人間でもある。職人とは違う。アーティストとは自分の内面から湧き出るモノをカタチにする。伝統とは違う。参照するものがない。ぼくはそういう人になりたかった。20年続けて目指していたモノを作って生きる人になれた。完全ではないにしても。作っているのは自分。モノを作りながら自分を作っている。

自分とは。曖昧。揺れ動く。未確定なのは、自分以外の要素に確定されるからだ。個人を特定する要素は、年齢、職業、人種、性別、出身地、現住所、趣味、好きな食べ物。初めて会った人にこのすべてを質問すればその人を理解できるだろうか。否。

子供に将来どんな職業に就きたいか大人は質問する。いや、どんな人間になりたいのか質問したい。

アーティストを目指したとき、ぼくは理想の自分自身になろうとした。いくつかの偶然が重なって、関係ないようなことも役に立って、そもそも自分がそうなるために必然に選んだそれぞれなのか。

ぼくは日記をつけるようになった。それはありえないほどバカらしい理由だった。結婚する前だ。お酒を飲んで原付きバイクを運転していた。まだ今ほど飲酒が厳しくなかった時代。警察に捕まって免許を取り消された。数年後、免許を取り直すことにした。お金を節約するため一発試験に挑戦した。そのために勉強することになった。35歳ぐらいだったか、久しぶりにノートとえんぴつを手にした。勉強しながら、やりたいこともメモし始めた。明日やること。メモしたら明日それを見る。見たらやる。繰り返すうちに何かが変わった。頭に浮かんだことをメモする。このシンプルな行為は明らかに「生きる」をつくる技術。

ぼくは音楽関係の仕事をしていた。イベント企画の他にミュージシャンのマネージャーをしていた。スケジュールを管理したり、ライブやDJの仕事の窓口をしていた。ミュージシャンは人気が出はじめるとマネージャーが必要になる。お金の交渉や仕事を取ってきたり、スケジュール管理したり。

マネージャーをやっているうちに、自分で自分のマネージャーをやったら、どうなるんだろう、と閃いた。  

ノートにそれを書いた。やってみた。はじめは書いたことをやらない自分もいた。なぜやらないのか。やれば先に進むのに。それを繰り返し自分をコントロールする人間になった。

ぼくが表現したいのは「生きる」ということ。それを作っている。それ自体をこうやってドキュメントしている。こうやって記録して分かってきたことがある。過去を振り返って文章にすると正解を書いてしまう。だから今を書く。「生きる」とは結果ではなく、その瞬間、その時々に起きたことの連続でしかないから、今の考えを重ねていくと、それが地層のようになって、つまりページになって物語になる。語っていなくても。大地だ。つまり小さな歴史が刻まれていく。個人の記録が埋まっていく。それが読まれようと、読まれなかったとしても、ぼくは自分が生きてきた道を振り返ることもできるし、先へ進む道を照らすこともできる。道だ。このラインは自分自身の影であり光にもなる。そこに自分自身の意志が表れる。

この生きるための芸術は、哲学に接近している。生きる道の作り方を編んでいる。職業でも性別でも年齢でもなく、君がどう生きたいか、それに真っ直ぐに答え、実践していく、これが生きるための芸術だ。

この純粋さを習得するために、身の回りのモノから作品を制作している。ぼくが作るのではなく周りの環境が作る。作品が環境から作られるようにぼく自身も環境から作られる。だとしたら、自身がまず、自分の世界に対して誠実に向き合うことこそが、社会や地球に対するアクションだ。ひとつひとつの人生がその命に対して自問自答し行動する、その自由のために表現を続ける。