いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

環境芸術というコンセプト

アート。芸術。そういうものを目指して取り組んできた。没頭できて、それが仕事になって尚且つ有名になって成功できるのだとしたら、それを目指したいと思った。その背景には「働くこと」への抵抗がある。たぶん、それが正直なところ。いろんな仕事をしてきたけれど、どうして働かなければならないのか、納得できたことがない。怠けたい訳じゃない。理解したい。心の底から。1ミリの疑いもなく全力でやりたい。自分が朝から晩までやる仕事を使命と信じて。

幸いアートはその想いを受け入れてくれた。いくら熱中しても無駄になることもバカにされることもない。すぐにお金にならなくても、未来に投資をしていると考えることができた。何よりやらされるという感覚はゼロですべて自分で考えてカタチにする。やればやるほど成長していく。限界はない。そんな熱量で表現していくうちに「芸術とは何か、生きるとは何か」という問いにぶつかった。それは巨大な壁。まるでモノリスのような謎だ。それ自体を観察して思考することもまた表現活動になった。生きるとは何か。素直に考えてみれば至る所に「なぜ」が湧き上がってくる。とてもシンプルに不思議で仕方がない生きるという生命活動。表現することは、湧き上がる「なぜ」を掬い取って実体化することだと思う。答えではなくその問いをカタチにする。

表現とはどこからやってきて、どこへいくのか。ゴーギャンは「われわれは何処からきて、何者か、どこへいくのか」と生涯を賭けた傑作のタイトルでそう問う。

ぼくの表現活動は先人たちの表現に心を動かされ、それを吸収し土壌になって、そこから萌芽している。その芽が花や果実となってまた誰かの心を動かす。そう願う。そうやって世界は記述され読み解かれていく。

だから、ぼくにとってのアートとは絵画だけではない。文学も映画も哲学も宗教も日々の生活すらも、それはどこにでも見えるし採取できる。

改めて、自分が影響を受けた作家や作品を並べてみると、はじめに期待したような有名になって成功するようにはならない気がしている。それもいい。続けられるなら。

宮沢賢治ラメルジー、レーモン・ルーセル、CRASS、リチャード・ロング。つまり、詩人、ラッパー、コラージュ、偶像破壊主義、文学、言語、パンク、DIY、ランドアート。それが檻之汰鷲だ。そして妻チフミとの共同作業。「おりのたわし」とは「檻のような社会からアートの力で大空を自由に飛ぶ鷲になる」という意味がある。まさに今そうしている。なりたいものに近づいている。なりたいものに近づく一方で、アートから遠ざかっていく。

いま全力で取り組んでいるのが、茨城県北茨城市里山での景観づくりだ。空想の世界をつくるのではなく、現実の世界をつくる。絵画をつくるのではなく、現実の景色をつくる。

アートは「生きる」と直結するベきだ、という理想を描いた。作家は人生そのものをつくるべきだ。作家が実生活をつくらずに、作品世界だけを作っていても社会は変わらない。けれども作家が想像力で作品をカタチにするように、想像力で現実をカタチにするようになれば理想を提示できる。SF作家のカートヴォネガットは、炭鉱でガスが出る危険を察知するカナリヤに作家を例えた。社会の危機を知らせるべきだと。

自分の生活そのものを作り続けたと結果、空想世界は現実世界になった。それは環境そのものを作ることだ。つまり空想を現実にすることはユートピアをつくること。それは現実空間であり、世界そのものをつくる行為だ。

ここにはズレがある。ぼくの空想を現実のうえにトレースしている。また別の人も同じ現実を見ている。同じモノを見ているようで、人の数だけレイヤーが重なってブレている。この現象のなかに理想郷をつくるのがハキムベイの提唱したT.A.Zだ。T.A.ZとはThe Temporary Autonomous Zone/一時的自立ゾーンと翻訳されている。ぼくがつくる里山は一時的な自立ゾーンとしてデザインされている。これは見立てでもある。

この里山、関東の最北端、東北の南端、その境目にある揚枝方という地区は、小さな山に囲まれた谷の集落で、現代社会からは何もないとされてほぼ放棄されている。12世帯が暮らすいわゆる限界集落という地域だ。水道も下水もない。この限界とは高齢化が進み、生活空間として、共同体集落としての維持が限界に近づきつつある、という意味を指している。

ここで起きていることは価値の崩壊だ。現代社会が提示する経済的価値基準を満たさない土地になっている。つまり土地に価値がない。ここで暮らすことはできるのに価値がないとはいかに。限界集落はむかしから何も変わっていない。変わったのは社会の方だ。むかしからあった価値は見えなくなってしまい誰も興味を示さない。しかし、ないのは貨幣的な価値だけで、むかしからある資源はいまも溢れている。水、空気、大地、木々、川、虫、鳥、動物がある。つまり社会の対極にある自然がある。生きるために必要なものが揃っている。現代社会はこれらを役に立たないと放棄する。

ぼくは既にあるものではなく、まだないものを創造したい、そう考えている。だから自分の属している場所を示すことができない。画家ではない。彫刻家でもない。小説家でもない。詩人でもない。けれども、そのどれも試みている。自分自身のみつけた技法で。

海外の友達に近況を報告したとき、ぼくのしていることは「environment visionary」だ。とコトバを与えてくれた。意味としては、幻想的な環境またはファンタジー世界は、多くの場合、建物や彫刻公園の規模の大規模な芸術的インスタレーションであり、その作成者のビジョンを表現すること。
ぼくが影響受けた作家に郵便配達員のシュヴァルという人がいる。郵便配達員のシュヴァルは配達中に奇妙な石につまづき、その石からインスピレーションを受けて33年の月日をかけて石を積み上げ宮殿を建設した。

こうやって言葉にして自分の現在地を把握している。ぼくがどこからやってきてどこへいくのか。それは今の自分が教えてくれる。