いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

無計画だからピッタリ嵌まる不思議

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軽トラックに荷物を積み込んだ。明日展示の搬入だ。ピッタリだった。軽トラックの幌の骨組みも作った。なんでも自分たちでやっている。なぜなら自分でやれば問題や課題は自分だけのもの。自分で解決できないことはもう不可能だ。つまり他者へ期待する余地が消えて100%自分でやらなければ成立しない状況になる。それがシンプルで分かりやすい。

やっと文章を書く隙間ができた。この数ヶ月とにかく作り続けた。ぼくは妻とふたりで制作していて、妻がつくるもの、ぼくがつくるもの、ふたりでつくるもの、それらが作品として現れてくる。現れた作品たちは、生まれたばかりで、展示するには仕上げなければならない。つまり額装したり、色を塗ったり。

そういうわけで、作ったものを仕上げるために、ひとつの制作から更に複数の制作工程が増える。展示までやるから更に制作物は増えていく。その増加していく過程のなかに予期しなかった創作が生まれたりする。具体的には展示台というオブジェに遭遇した。

今回の展示会場には壁がない。あるのは柱だけ。什器もない。8m × 8mの平場が与えられて、そこに作品を並べる。それを自由と受け取るなら、その空間にどのようにでも作品を並べることができる。すでにそう理解するところから表現は始まっている。

壁がないなら作品が自立するしかない。自立するとはスタンド。依存しない。立ち上がる。彫刻には展示台がある。それはどんなカタチをしているのか。まあとにかくモノが乗る台だ。それを作るしかない。

中野区のプロジェクトでカタチを組み合わせ参加者たちそれぞれのカタチを作った。そのときカタチを合成する技をみつけた。それを応用すれば展示台ができる、そう閃いた。何かをしているとき、自分が考えたりイメージするのではなく、状況や環境から発想されることを優先している。自分以外のところから生まれるカタチ。それはオリジナルだ。

さっそくアトリエの端材を組み合わせ展示台をつくった。そういう経緯で今回の展示で名脇役=展示台が誕生した。

平面の絵は展示台のおかげで、壁から解放されてオブジェになった。主役が乗っかる台。乗り物。脇役の展示台が空間をコラージュする。ここでは展示台にフォーカスしたい。視点が拓けたことについて書いておきたい。

展示とは空間に色やカタチを配置すること。それよって配置されてない空間に影響を与えることができる。鑑賞者が作品の前に立つことでも空間は変化する。つまり作品も鑑賞者も両方が変化する。両方が変化するとフィードバックを起こす。どちらか一方なら、それは受ける側の変化で完結するけれど、両方となると、変化が変化を起こして予想外の地点へと変異していく。鑑賞者からの感想とはまさにそれだ。作品は言葉を与えられ、まるでそれを養分に成長する。

展示とは、作品をつくる活動とは跨ぐ領域が異なる。展示は作品が社会と接点を持つ場だ。作品も鑑賞者も、未体験をどう経験するのか、そのセッティングがまさに展示することだ。

作品をつくるという仕事。その先には作品がどのように体験されるのか、その仕方を空間にインストールする仕事がある。たぶんこれはキュレーターとか学芸員とかの仕事になるのかもしれない。しかし誰かがやらせてくれと、手を差し伸べないのなら、もしくはそこに至るまでは、自分でやるという選択肢はすべての活動や仕事にありえる余地だ。見えたのなら自分でやるという選択肢は常にある。やってみるという無謀な試みには初期衝動が宿る。

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展示空間をどのように埋めていくのか。つまりぼくなら空間をどうコラージュするのか。アトリエで今回の展示をリハーサルしたとき、作品や展示台が空間に配置されることで、それ以外の空間に影響しているのを感じた。これを説明できるのが「図と地- figure and ground」だ。

視野に二つの領域が存在するとき、一方の領域には形だけが見え、もう一つの領域は背景を形成する。背景から分離して知覚される部分(形)を「図」といい、背景となるものを「地」という。「図と地」ということばを初めて使ったのは1912年デンマークの心理学者ルビン。

作品は図であり、空間は地になる。展示台はパースペクティブを超えて図と地を結ぶ働きをする。絵が壁に張り付いているなら、それは絵のままだ。しかし絵が壁から自立したとき、それは図と地を跨ぐ、空間を侵食するオブジェになる。

自分がしてきたことの発見やアイディアがあって、それを社会に展開した分だけ評価が決定される。そとにアウトプットされたものだけが他者に見える。しかしそれだけじゃない。文章は見えなかったものを掘り起こすツールになる。もしくは下書きやデッサンのような。

展示にしろ、文章にしろ、起きたことをカタチにする。展示はテキストではなく空間に配置してそれをカタチにする。その効果は空間を侵食された側、つまり「地」の方に現れる。鑑賞者が見るのは展示されたモノだけれど、影響は人の側に作用する。地の側と人を変える。図はただそこにある。

もっと拡大して解釈するならば、ぼくはコラージュという技術によって「地」の側から世界を見ていることに気がついた。誰かがしていることが評価されたりすると自分と比較したりして残念に思うこともあった。でもそれは「図」だけを見てるからだ。「地」も併せて比較すれば、それはまったく違うものだと気がつく。

「地」という環境を構築することで「図」が立ち上がってくる表現。それが生活芸術だと自分の理解が突き抜けた。それは環境をつくるということだ。