いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

成功とはマストなものなのだろうか。適当に楽しく生きたら死んでしまうのか。

個展の準備に追われて忙しいはずなのに今日は土を焼いている。これが制作だ。

数日前には紙を漉きながら土を焼いた。早く結果が見たいのでブロアーで風を送って急激に熱したら土は割れてしまった。妻に「ほんとにせっかちだよね」と言われた。

今朝は海岸のゴミ拾いに参加した。帰ってきて、さあ制作だとパピエマシェ(張子)の馬を削った。昼前に妻がお昼ご飯は炭で料理したいと言うので、炭に火をつけた。だったら土を焼こうと田んぼの土で整形した石を並べた。まだ乾燥してないから火に当てて水分を蒸発させる企みだ。

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BBQコンロで妻が料理する横で土を焼いている。奇妙な光景だ。ジャガイモじゃない。土だ。まあ直感としてあらゆる造形は料理に由来すると思っているから筋は通っている。ゆっくり丁寧に火を通したおかげですっかり乾燥した。

炭は燃えていて、土の石は乾燥しているからもうすぐに焼きたい。結局、燃える炭のなかに土の石を入れた。前回の反省点として、ブロアーは急激に温度が上がり過ぎる。せめて団扇であおぐ程度にした。

土を焼きながら、自然について考える。ナチュラルという言葉の通りで、それは急激ではない。Let it be的な、なすがままにか。そう考えたら忙しさがなくなった。なすがままになると自分と焼いてる土だけになった。火が燃えるスピードに任せ世界はゆっくりとした時間になった。

土を焼くことは陶芸になる。陶芸の約束事に従ってやれば、それは当たり前に陶芸になる。売っている材料を使えばもっとそれは成功する。しかし決められた通りにやることができない。そういう性格だ。ギターを弾いてもすぐに弦を針金にしてしまったし、父親から習っていたピアノも辞めてしまったし、歌も自分のやり方で続けてきた。すごく遠回りをしている。

ひとつひとつの作業は挑戦だし未知になる。この文章に何回か「通る」という言葉が出てくるが、誰か考えたやり方ではなく、その通り自体を作ろうとしてしまう。ほかにやり方がないだろうか。その模索が楽しい。達成したときカタチになったとき、それはとても新しい驚きを与えてくれる。食べ物と驚きは新鮮な方がいい。

成功することにさえ違和感を持っている。成功するためにはどうすればいいか、よい絵を描くためには、作品を売るためには、人生を勝ち抜くにはどうしたらいいか。あらゆるノウハウが流通していて、それが人々を成功へと導こうとしている。ほんとうだろうか。成功とはマストなものなのだろうか。適当に楽しく生きたら死んでしまうのか。

本を書いてそれが売れてベストセラーになる。夢かもしれない。でもそれができるのはピラミッドの頂上だけだ。そこに至る道は狭くなるばかり。競争もある。戦いもある。しかし何のために頂上を目指すのだろうか。

ピラミッドとはシステムの喩えだ。陶芸だったら◯◯焼きという伝統がある。それは美しいとされる。しかし、その美しいものを再現することはほんとうに美しいのだろうか。もう既に◯◯焼きは完成している。

ゆっくり流れる時間のなか目の前の焼ける土を眺めながらそんなことを考えた。

そうだ。電気窯を貰ったときに温度計がついてたのを思い出した。何度で土を焼いているか分かれば対策できる。アトリエから持ってきて電源を入れると動いた。15度と表示された。検温する棒を燃える炭に刺す。温度は上昇して100度を超え、300度、600度、900度で安定した。

ぼくは900度にする技術を手に入れた。風を送れば1100度ぐらいには到達していると予想できる。身の回りの自然を利用した自己流でも土を焼く技術がカタチになりそうだ。今日は炭を足しながら更に数時間焼いてみることにした。結局欲が出て昼から夜の10時頃まで土を焼いた。素晴らしい。炭を作っているからできる贅沢だ。

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そして田んぼの土は焼けて固まった。すべて身の回りの自然から作品をつくることができた。