いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ブルックリンでの展示初日。思考すれば細り険しくなる道。それでも先へ進む勇気と希望がある。

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何のために制作するのか。人生、心の平和のため。それは個人的なこと。制作には2つのベクトルがある。ひとつは、感情的なこと。もうひとつは、作品が語るすべてのこと。
感情的なことを語る術は、このようにテキストでカタチにしてきた。それが「生きるための芸術」というコンセプトになった。誰でも日々を記録し続ければ、生きるための芸術を実践できる。自分の声を聞き、自分の生きる道をつくること。

一方で、ぼくらの作品はどれだけのことを語るのか。ニューヨークで3週間の滞在期間で材料とアイディアを拾い集め、やれることはすべて出し尽くし、そして未来への課題が残った。

昨日の午後、ニューヨークのギャラリーへ営業のためにネットで下調べするうちに、そこがゴールではないとハッキリ理解した。いくつものギャラリーを調べるうちに、取り扱う作品の強度が高いほどにギャラリーはは何も語らないことを知った。作品が言葉以上にすべてを語るからだ。

「活動」と「作品」が違うレイヤーにあるように、「作品」と「展示」もまた異なるレイヤーにある。展示は鑑賞空間をつくること。それは作品が世に生を享け呼吸を始める場所。創り手を離れ作品が語り始めるスペース=宇宙。この空間の強度、そこにアート作品の価値が宿る。作家のいかなる感情の説明を省いても、作品が内包するオーラがすべてを語る。だからギャラリーはホワイトキューブだ。

こうしてテキストによって語られる感情と、作品に反映されるテクニックは関係ない。こうして文章を書くことも作品づくりの技術も日頃からの鍛錬の結果だろう。では、自分はいつ作品づくりの技術を磨いているのか。

思考すれば道は細り険しくなる。それでも先へ進む勇気と希望がある。それが「道」なのかもしれない。日本的なひとつのことを極めようとする姿勢。指先にまで宿る全体。日本人として生まれ、ここに学ぶべき芸術論がある。結局のところ、それは全てに通じる。つまり、人としての。身なりが良い悪いでもないし、性格の良し悪しでもないし、貧富でもないし、それでも、その道にどれだけ邁進できるのか。日常を芸術に変えることができるのか。

ニューヨーク。現代アートの源流。観察できたことは、これからの活動に大きな糧となった。ギャラリーとコネクションを持つのは、旅の港を見つけるようなこと。人生を芸術にした船が、立寄る港を探している。ぼくらに興味を持ってくれ、機会があれば展示をやらせてくれ、作品に価値を与えてくれるような。その意味で今回、展示をやらせてくれたOuchi Galleryは、充分な役割を果たしてくれた。感謝。