いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日記では表せない溢れ落ちる喜びについて

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1月から2月まで日記をつけてきた。したこと考えたことを記録した。しかしただそれだけじゃ物足りない気持ちになってきた。なぜならしていること、それだけを並べると、まるで労働者だ。事実そうなのだけど、身体を動かして働くことの意味を取りこぼしてしまう。意味には表層と深層、過去/現在/未来がある。

ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンが陶酔論で意味について「両手で水を掬って溢れ落ちる」と表現していた。その溢れ落ちていくもの、つまり両手で掬おうとする、溢れ落ちる前は、そのすべてに豊かさが漲っている。目指している生きるための芸術とは、人生のなかに芸術があって、それが表現として展示できるとか、販売できるか、評価されるか、そんなことは問題にしない。人生そのものの豊かさに価値がある。また価値というのもお金で計るものではなく、その価値自体を問い続ける哲学でもある。

日記のタイトルは炭焼き日記だ。なぜならしていることの最前線が炭焼きだから。しかし炭焼きをそのまま日記にすれば炭焼きさんの記録になる。しかし目指すところは別にある。炭焼きを通じて身につけた木を伐る技術、火、土、木、自然そのもの、その先にアートを接続する、その試みは自分だけのもだし、ほかの誰かがやれることでもない。なぜなら、炭焼きをしているのは出来事やモノや人との出会いのコラージュの結果。偶然と必然の間から溢れ落ちてきた素材。予想もしなかったカタチを失敗や間違いとするのではなく、その先に線を引く、色を塗る、そこから新しい景色を導き出す。作るのではなく自ずと現れる、その現象を起こす環境をつくる。

そんな考えのなかで炭焼きをやっていることは誰も知らない。レイヤーが違う。地域の近所の人たちは炭焼きを頑張っていると褒めてくれる。こっちのレイヤーでは炭焼きは太古と現代をリンクするアート。だから炭窯で粘土を焼いて作品を作っている。けれど、身近な人はそれを素焼きの陶芸未満と捉える。拙いもの。しかし生きるための芸術的には、そこにあるモノの組み合わせで必然的に生成されたオブジェが作品になる。しかしそれが表れているのにコトバで説明を加えるのは無駄なこと。その未満なカタチから魅力が伝わらなければそれはそれ。作品はそのモノ自身が文字文明以前のやり方で何かを伝える。

デュシャンは「芸術作品が作品になるのは、蜂の集めた蜜が人の手で精製されて蜂蜜になるように、鑑賞されて鑑賞者のコトバや眼差しによって完成される」と何かの本に書いていた。大学生のとき図書館で立ち読みしたフレーズで気に入ってメモしていた。作るのは自分ではない。周りの環境がゲームのように一手づつ作品へと詰めていく。

自分がしていること、制作方法について、そのルーツに気がついた。大学生のとき、音楽や文学を掘っていった果て、パンク、ロック、ソウル、ジャズ、テクノ、ヒップホップ、ノイズ、その先にジョン・ケージがいた。無音の4分33秒。無音が音楽だと教えられた。ジョン・ケージがそこに至った影響が鈴木大大拙の禅とマルセル・デュシャンの便器だと教えられた。デュシャンがその影響だと教えてくれたのがレーモン・ルーセルだった。

1900年のはじめ、フランスに生まれたルーセルは早くから文学を志し、あるとき文章を書くペンが輝やきを放った。それは傑作の証だった。ルーセルはカーテンを閉めて執筆を続けた。光が漏れたら盗まれてしまう。そうして書き上げた作品は評価されなかった。ルーセルは精神を病んだ。ルーセルは奇妙な方法で小説を書きはじめた。ほとんど同じ2つの文章を並べて、はじまりと終わりに設定して、その間を単語の意味を読み違えながら物語を紡いでいく。そのルールと組み合わせに支配された異様な物語は、本が理解されないなら演劇へと、ルーセルは表現し続ける。その世界に驚嘆したのが若きシュールレアリズムの作家たちだった。デュシャンもその1人だった。

ルーセルは現実からの影響を一切含まないとその創作の秘密を死後に発行する約束で預けた原稿で明かしている。死まできっちりと作品にしている。

今ぼくがしていることは、この源泉、レーモン・ルーセルに由来している。ぼくの作品がそれほど強烈な表現になっているかどうかは問題ではなく、していることが社会的な意味に留まらないように、行為やそれを指し示すコトバから根を張るように、ひっくり返したり、過去や未来を引用したり、生活と表現と仕事と労働と遊びを混ぜて、化学反応を起こす、錬金術のようなやり方で、意味を生成していく、これが「生きる」ための技術、この地層はこうやってコトバを操って、その深層へとガイドしないと伝えることはできない。現実のうえに重ねられた表現だから。

ぼくの生活のほとんどが自然に寄っていて、一日に会う人間の数よりも木の方が多いし、看板や広告よりも、太陽や風、草や木、匂い、鳥や鳴き声を感じる時間の方が長い。社会から隔絶している。ぼくはここに生きているのだから、その目の前を感じることに集中して、そこでの偶然と必然から自己生成するカタチを取り出す。それがいま制作している作品の全体像になる。これは書かなければ明確にならなかった。

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シジフォス- Sisyphus

岩を持ち上げ山の頂上まで運ぶと、瞬く間に山の麓に戻っている。今日も明日も永遠にシジフォスは岩を運ぶ。これはギリシャ神話。神を欺いた罰として永遠に岩を運ぶ。しかしそれは喜びにもなる。岩をいくつにも積み上げて運んでみたり、今日も明日も繰り返す労働だとしても、それを遊びや喜びに変えられる。

He lifts the rock and carries it to the top of the mountain, and in the blink of an eye, he is back at the foot of the mountain. Today and tomorrow and forever Sisyphus carries the rock. This is Greek mythology. He carries the rock forever as punishment for deceiving the gods. But it can also be a joy. Even if it is a labor that repeats itself today and tomorrow, such as carrying several piles of rocks, we can turn it into play and joy.