いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ものをつくるための言葉

なんのために。何度も問い直す。なんのために、つくるのか。依頼された作品に時間を費やす。イメージしたものをカタチにする。未だ見たことのないものを求めて。なんのために。一方で社会で流通するものは、わかりやすさを求める。まるで何かに似たもの。似たものが似たものを模倣が模倣を繰り返して商品化していく。アクセスしやすいもの。携帯に触れたその先にあるもの。なんのために。

フリーペーパーをつくろう、と北茨城で出会った仲間と取り組んでいる。メンバーのひとりが「ファミレスのうしろの席に携帯触ってるだけの三人組がいて。20代はじめかな。喋らないんですよ。それぞれ携帯を見てるだけ。ああ、こういう奴らにフリーペーパーを届けるのは至難の技だな、と思ったんですよ」と話した。

活字を読まない。本を手に取らない。そういう人は多いだろう。フリーペーパーを20代の子たちが手にするか、期待は薄い。それでもフリーペーパーを発行して配布すれば手に取って何かを感じてくれる人もいるはずだ。資本主義社会ではとても弱い。まるで雑草のようなフリーペーパー。

Solarpunk(ソーラーパンク)という言葉を知った。SNSで友達が紹介していて、英語圏では2013年頃から、気候や環境に対する危機に反応するカルチャーとして話題になっている。自然を取り入れた暮らしのパーマカルチャーと、SF的な未来感と反抗する姿勢としてのパンク。音楽ではなく、ライフスタイルとしての空想未来。宮崎駿もインスピレーション源になっているらしい。しかし乗らない。期待に乗らない。それが生き延びる技術でもある。低空飛行で。

何かを知ろうとするとき、日本に暮らしていれば日本語の情報に触れる。だとすると、日本語圏にしかリーチできない。もし英語ができるとしたら、日本語に翻訳される前の一次情報に触れることができる。ソーラーパンクなるムーブメントをまったく知らなかったことに、日本語環境に浸かっていることに危機を感じた。

炭焼きをしている。この活動のウェイトがなかなか大きい。スケールも。学ぶことも多い。身体も時間も使う。しかし社会的な価値はとても低い。消滅しようとしているほどだ。では何のためにやるのか。これは直観のようなもので何かがある。そういう気がしている。探究しているものの答えがある。「生きる」と「芸術」の両側から探究を続けている。学者ではないから研究というかdig=掘っている。掘る先に湧き出すインスピレーションがある。なんのために。

生きるとは何なのか、芸術とは何なのか。これらを探究してきた先に現れたのが炭焼きだった。自然のエレメント、火、土、水、木、を操る技術。何万年の遥か太古から伝わるこの技に人間が生きるための技術が詰まっている。

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スーパーで買い物をしていてピザをみつけて食べたいと妻に話したら、じゃあ、ピザ作ろうよ、ということで帰宅して石屋さんに貰った窯に火を入れた。ピザ窯ではないけれど、焼き芋を作る用に設置してくれたもので原理は同じはず。薪の火で窯を温めて、充分熱したらピザを入れる。ピザも焼けたしおまけにクラッカーも作れた。料理は生きるための芸術だ。

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そういえばオーブンって何だろうか。海外を旅したときはオーブンを使った料理でもてなしてくれた。野菜を焼くだけでも美味しい。でも日本には普及してない。あまり。調べてみると、オーブンの歴史は古く、紀元前3000年前にはパンを焼いていた。それは窯でつまりは炭を焼く窯と原理は同じ。日本は小麦文化ではなく、米文化で煮る炊くが普及した。だからオーブンは流行らなかった。代わりに電子レンジが普及した。その結果、コンビニでレンチンのフードを主食にするような現代になった。

豆知識を披露してる訳ではない。枝をみつけた。小麦はパピエマシェというヨーロッパの張子技術に使う。焼けばクレープになる材料で作品をつくる。元来、ものづくりは身の回りを利用していた。ブリコラージュ。役に立つかどうかは置いておき、こうした探究と脱線に作品をつくる技術や題材に遭遇するチャンスがある。人間が生きてきた営みや技術のなかから現代をサバイバルするための技法を採集する。もしくは概念(コンセプト)を抽出する。それらをカタチにしたときアートは社会参加できる。いまいる場所からの研究成果を発表できる。遠く離れるほどにオリジナリティは強くなる一方でより多くの人に届きにくくなる。しかしそれをやり遂げるのが表現者のミッション。脱獄するようにアートを社会に表出させる。

ひとつひとつの作品は大地から芽を出し咲かせる花のようなもの。だから、こぼれ落ちたイメージもしくは溢れてきたイメージは、できるだけシンプルにそのままカタチにできる。根を深く張っているから、それぞれの環境に成り立っている。それぞれの在り方がある。それはファミレスで携帯を無言で触る若者たちも、山で炭焼きをする自分と何も違いはない。そのためにつくる。線を越えて区別なく届けるために。

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していること、考えたこと、聞いたことなどをこうして混ぜて、溶け合った文章にすることも思索もしくは試作の過程にある。大地を耕すように言葉を練ることが活動の素描、スケッチ、下書きになっている。