いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

水が流れるように生きる

流れていく時間のなかで生きている。流れる時間のなかで人と自然と関わり生きている。いわゆる社会からは離れている。社会から離れた里山は価値を失いつつある。貨幣価値として。だから、ここにあるものを利用してアートを表現している。アートとは技術である。アートとは見えないものを見えるようにすることだ。

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3月に入って、炭焼きの仕事が活発になった。山の木を切るのを手伝ってほしい、代わりに炭の木をあげる、という取り引きで、師匠のところにそうした話しが集まってくるようになった。つまり山の木を手入れできなくて、多くの人が困っている。

かつて山の木は家の材料になった。薪になった。落ちている枝は燃し木になった。雑草は馬やヤギの食料になった。だから、どこも人の手が入って綺麗だった。そういう話しを聞く。でもぼくがいま見ているのは、その果ての景色。それは誰かが望んだ未来ではない。

「お金にならなければ生きていけない」

という信仰が人の暮らしから政治、社会すべてを変えてしまった。

携帯でSNSをやったり、ニュースを観ていると思考に影響を与えてくる。回路に侵入してくる。アートや音楽、ビジネス、何かで成功している人をみると自分も頑張らなきゃ、と思う。焦ってしまう。けれども、それはぼくの行き先ではない、と自分に言い聞かす。誰かの成功はその人が歩いてきた先に手にした結果なんだ。その結果だけを手にすることなんてありえない。その過程の先に未来が作られる。ぼくの場合は、競争ではなく、既存の種目からコースを外れて、ゲーム自体を放棄している。放棄というのは、もっと前向きな、つまり失敗、誰も欲しくない成果、それだったら手に入ると気がついた。それが田舎にある。空き家だとか、耕作放棄地とか。炭焼きとか。舟をつくることや。

炭焼はこの先もうやれる環境がなくなっていくだろう。技術も失われていく。なぜなら、炭焼きは、資本主義的な記号価値からほど遠い場所にある。かつても底辺の仕事だった。

だからこそ炭焼きという地点から立ち上がるアートを提案できるはずだ。

SDG'sとかエコとか、縄文とか、そんな言葉が中途半端に聞こえるほど、ハードコアな自然主義。木を倒して、その枝まで、自然のエレメントをすべて使い尽くす、木と土と水と火、この活動。ぼくは流れていく時間のなかで太古へと逆流していった、フューチャープリミティブ。原始から、正反対からぼくは未来へ向かっている。

作品を作らなければと焦る気持ちは売れるものを作らなければ評価に繋がるものを作らなければという欲望でもある。天井知らずの。社会の流れを眺めていると、その欲望に飲み込まれていく。きっとそれが成功への近道なのだろう。飲み込まれ、流され、戦いながら頂点を目指す。より多くの評価、賞賛を求めて。でもぼくは違うところを目指している。距離の取り方で立ち位置が変わる。スタンス。生きるための芸術を。それが目指すところを確認するとき、ぼくのするべきことに気がつく。文章を書くことで地図を広げる。羅針盤だ。

ぼくは山の木を運んで薪にして、植樹した桜を守るために草刈りをして、春を迎える準備をするべきだ、と気持ちを新たにする。

先日のイベント子供ゲーム祭りで、お寺の住職さんが絵を買ってくれた。その住職さんを紹介してくれた友達が、が大きな桜の木を倒して、その木を使わないか、と連絡をくれた。循環している。ぼくは木彫をやるのだ。

今朝、お寺に桜の木をとりに行くと予想以上にデカい。正直いらないと思った。「いらない」と言った。友達は「面白いから持っていけ」と言う。ユンボを操作して軽トラックに積んでくれた。2台の軽トラックで3つの木を運んだ。

常楽寺というお寺に植っていた桜の巨木。樹齢は300年以上ある。そんな木が炭窯の広場に運ばれてきた。軽トラックから、なんとか降ろして計画通りに立てた。それらは存在した。作るというよりも、そこに在る。カタチに出会う。現れる。現象するという技法なのかもしれない。あとは、この木を固定する。それで作品になるのではないか。

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また別の経緯で妻が電機窯を貰うことになった。ぼくは陶芸をやるのだ。どうなるのか。巡る縁に導かれ素材、題材、技術に出会う。