いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

システムをハッキングして生き延びる技

「俺が死んだらここで焼いてもらいたいな」と炭焼きの師匠は笑いながら言った。死を恐れるよりユーモアで迎える姿勢は痛快だ。誰も彼も彼女もみんないずれは死ぬ。父も母も御子息も。そればかりは逃れようがない。

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ぼくはまだ生きてる。朝に目覚めて夜に寝て。その間に喜んだり考えたり働いたり。今日から明日へ。繰り返している。ほかにもいろいろある。小さなことならNetflixを観るとか読書とか。

ジル・ドゥルーズ「記号と事件」のミッシェル・フーコーのページを読んでいる。どちらも哲学者。もう死んでる。死人の話を聞いてる。哲学者は考えに考え文字にして、言葉の奥深くへ潜っていく。ドゥルーズの本を読みたくなるのは、思考の底から掴んできた未だ触れたことのない言葉の束を披露してくれるから。

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なぜその言葉の束を読みたいかといえば、この世の中は複雑で攻略法がないから。哲学書を読むことは、この社会をハッキングするガイドブックだと感じている。そこには道順や手順が書いてあるわけじゃない。言葉が並んで詩のようになった文章から伝わってくる、それを暗号のように解釈して実行する。もちろん翻訳だからドゥルーズさんの言葉そのものではないけれど、エベレストを逆さにしても到達しないであろう思考と言葉の最前線からの贈り物、読書は実践するためにある。

ドゥルーズの説明によると、フーコーの哲学は、権力が知の諸形態をすり抜けて、生へと関与してくる、そのチカラを回避して生存を成り立たせる、生存を主体のかたちで考えるのではなく、芸術作品としてとらえること、としている。

つまりだ。生きていると権力に飲み込まれてしまう。フーコーさんも。知識を総動員しても、それでもまた権力に染まってしまう。どうにかして権力から逃れたところで生きることはできないだろうか、それがフーコーのテーマであり、それは生きることを芸術作品にすることだという。難しい本を読んでいて、勘違いだとしても理解できたり思い当たる節があればラッキーだ。

ところでフーコーさん、それって生きるための芸術ってことですか? テストには正解不正解があるけれど、実践の読書に答えはない。いずれにしろフーコーさんには会えないし。だから何かを掴んだり閃いたりすれば素晴らしいじゃないか。それだけで。

じゃあ権力をいかに回避するのか。もう少し理解を進めてみよう。勘違いだとしても。権力はどこにあるのか。会社にある。銀行にある。病院にある。テレビ局にある。部長にある。社長にある。学校にある。出版社にある。作家にある。工場にある。学者にある。つまり社会全体至るところにある。

じゃあ権力がなさそうなところを探してみよう。道路にはあるのか。うーん、誰かが発注して業者が作って、その過程に権力はありそうだ。つまり社会のシステムにはあらゆる権力構造が組み込まれている。

じゃあ森はどうか。山は、海は、花は虫は? 自然には権力はない。自然に影響力を持とうする奴も企業もいるけれど、自然そのものには権力はない。どう?

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だから自然に向かう。何のために? なぜって炭焼きの師匠が言う通りにしたら逮捕されてしまう。死体を炭窯で焼いたって。騒ぎになっちゃう。本人の希望だとしてもそれは罪なのか。

つまりは「死」すらも管理されている。ビジネスに組み込まれている。お葬式いりません、お墓いりません、ただ死ぬだけです、とは了解してくれない。親戚が許さない、世間が許さない、社会が許さない。

許す、許さないも、生きるも死ぬも自分の手て掴んでいたい。だから生きるための芸術をやっている。死を表現するのは最高に美しいだろう。難易度はマックスだろう。それまでに表現を磨いておく。修行だ。

社会は経済で循環している。経済価値で計れないモノコトは切り捨てられていく。コンパクトシティーと称して開発とビルドアンドスクラップを繰り返す、その一方で地方の森も田畑も家屋も放棄されていく。

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集権型は中央に富を積み上げ、周辺から吸い上げる。吸い上げるために自然を禁止する。危ないからと。火は扱わせない。水も飲ませない。供給したもの以外。管理の外では生きられないようにする。死も管理する。

炭焼き師匠の言葉が響く。自然は働きかけなければ糧を生産しない。労働、身体、時間、汗、それらを誰にでも等しく要求する。金持ちも貧乏人にも。抜け道はない。誰かを支配しなければ余剰は生まれない。簡単じゃない。比べたら圧倒的にコストパフォーマンスが悪い。だから切り捨てる。ここ。ここに注目。ここに余地がある。現代社会は生きるための基礎となるエレメントを切り捨てる。森林、田畑、家屋、水。貨幣価値にならなくてもこれらは使える。お金と交換しなくても。森林、田畑、家屋、水。これらは銀座だろうとニューヨークだろうと、北茨城だろうと、用途は同じだ。畑は種を蒔いて植物を育てる。家屋に暮らす。水を飲む。

生きるための芸術。そもそも人間が自然から手に入れた生きるための技を取り戻す。太古からの技術を身につけろ。火を焚く、水を飲む、家を建てる、タネを撒く。社会が切り捨てる価値の外でシステムをハッキングして生き延びる。