いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きるために抵抗する。社会という漠然とした全体に対してーそのためのLocation<位置取り>についての考察。

生きる。このシンプルな活動の難しさ。ぼくは生きることに向き合っている。何をしているのですか? 自己紹介で必要とあれば芸術家です。と名乗る。けれども、その中身は生きることをしている。それは仕事ですか? 仕事とは何か。ぼくの場合、こうやって問い続けてしまう。お金を貰うことだけが仕事なのだろうか。お金を貰っていること。絵を描くこと。木を削った彫刻。粘土を捏ねて焼いた土器。文章。草刈り。炭焼き。幼稚園の絵画教室。山間部の集落の景観づくり。これらの仕事は生きることの活動から派生している。

じゃあ本業は?

やっぱり生きることが自分の中心にある。その周辺から解題してみよう。何のために働くのか。究極的には生きるためだろう。何かを買いたいとか、よりよい生活とかあるだろうけれど、それらは生きるという基盤あっての余剰。そもそも生きる土壌が出来上がってもいないのに、何かを買い漁っても、よりよいとか比較して欲を出しても、それらに限界はなく欲望の泥沼にハマっていく。それもそれでいい。楽しかったり気持ちよかったり夢中になれるなら。でもそれに限界はない。だからいつか覚める。そのとき分かるはずだ。ほんとうに必要なのは生きることだと。

昨日炭窯に火をつけた。今朝炭窯の火の様子を見に行った。煙が少なかった。だからブロワーで風を入れた。炭窯が煙を吹上げた。その様子を見ながら感じた。目の前に向き合っている。そう体感した。鳥やカエルの声、風、太陽を感じた。目の前の炭窯は燃焼して煙を吹上げている。ぼくも呼吸して血液を巡らせ生きている。そう実感した。だからなんだと言われるかもしれない。それでお金になるのかと言われるかもしれない。でもぼくは「生きる」という感覚を失っている現代社会から敢えて距離を置いて、この感覚を取り戻した。

英語の勉強のためにNetflixを英語音声の英語字幕で観ている。なんだかんだダラダラと上手くならないまま英語学習を続けてきた。最近になってやっと手応えを掴みつつある。英語は言語だ。だから伝わればいい。この最低条件が日本の英語教育から抜け落ちている。むしろ正確さや何十点だと優劣をつけてしまう。だから苦手意識を持ってしまう。できない、と。英語は言語だ。話し言葉。それは歩くのと同じ。歩き方はそれぞれ。自分の足で歩くこと。同じように自分の言葉で伝えること。だから、Netflixを観てヒアリングを鍛えている。オンライン英会話のフリートークでスピーキングしている。会話の文章や話題が出てこなければライティングする。この3つを継続して解らないことをコツコツと減らしいけばきっと使えるようになる。あとは筋トレと同じだ。

Netflixのドラマ「トランスアトランティック」を観ている。第二次大戦中のフランスが舞台で、ドイツナチスの侵攻から逃れるために亡命する人々の物語。そこに実在の芸術家たちが登場する。マックスエルンスト、アンドレブルトン、ヴァルターベンヤミン、ハンナアーレント、コレクターのペギーグッゲンハイム、彼女の言葉からマルセルデュシャンの名前が出てくる。

今となっては伝説的な作家たち。当たり前だけれど、彼/彼女らも生きていた。有名でもなく、今を生きるそれぞれの表現者たちだった。第二次世界大戦中、ドイツのナチスの迫害によってユダヤ人たちは追い詰められやがては殺された。その時代のなか、彼/彼女らはそんな日常のなかで思考し表現した。美術館でもギャラリーでもなく、出版された本でもなく、日々の暮らしの僅かな時間のなかに何かを記した。文章、メモ、スケッチ、絵、詩、それらの一部が、例えばキャンバスに描かれたり、論考としてまとめられたりする。それらは時代の流れに抵抗して生きようとする<違和>もしくは裂け目ーギャップが土壌になって、その大地から芽吹いている。

目の前に感じるものを掴むために、漠然とした全体社会の流れに抗うため、もしくはその日々から逃れるための空想なのか、いずれにしても、あの時代の作家たちが命懸けで抵抗し産み落とした作品の強度について考えられずにいられなかった。

ぼくは彼/彼女らと何が違うのか。何も違わないし、ぼく自身も時代の流れ、漠然とした全体社会に抵抗している。それが故の「生きるための芸術」をしている。現在は芸術というものが表現されたオブジェ単体として評価されている。現実とは切り離されたキャンバスやオブジェに封じ込められている。しかし、それを作った背景、それを生み出した土壌が作品の強度を育んでいるはずだ。これをLocation<位置>と名付けよう。この時代、どこへポジションしたのか、しようとしているのか。それ自体がすでに表現である。情報は誰にでも提供されている。それをどう利用すのか、知っているのに知らないふりをするのか。それとも行動するのか。

社会とは、漠然とした全体の総意として現れる。人間同士の匿名の欲望、嫉妬、競争、位置取り、が溢れる。位置取りとは、社会的な地位や肩書き、経済的な水準獲得など、しかし、それらは生きることとは本質的に関係しない。社会は生きることの本質から日々を根こそぎ奪おうとする。生まれ自然に成長していく本能や精神を社会的な役割に栽培し直そうとする。教育はまさにそのことをする。だからこそ社会が目指そうとする全体の総意に抵抗することが、芸術表現の役割だ。ずっとそのむかしから。何千年も。人間とは何か、社会から救い上げるために。人間がよりよく生きることを目指すのだとすれば、漠然とした全体に準えるのではなく、それぞれの目的に応じて、それぞれ個人の望むところへ意志を置き直す必要がある。第二次世界大戦の戦禍を生き延びようとする人々の努力は、戦争という愚かさに抵抗するという点で、生への探究を目的とした、喜びと協働に溢れている。それが映画ドラマだとしてもひとつの理想として、参照する価値がある。

今現在もLocation<位置取り>することで、どのように生きるか、という取捨選択を表現可能だ。むしろ、それをすることで人間が繰り返す誤ちを修正することができる。失われていくものは、価値がないからではなく、容易くないから、難しいからとか、快適ではないから、お金にならないからという理由だけで、切り落とされていく。もう一度明確にしておきたい。生きるということは、現代社会が示す方向性とは相容れない。現代社会はひとりひとりの人間が生きることに対してとっくに無関心になっている。だから<間合い>を取る必要がある。生きるために。これは戦略でもある。間合いは、格闘技に於いて重要な技である。

新しく書き始めた本のために日々書いている思考の断片をここに載せた。