いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

中途半端に生きるなら死んだ方がマシなのか。

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朝起きて犬の散歩をした。それだけのことを喜んで歩く姿に対して、なぜ人間はたくさんのことを我慢して、喜びを遠ざけてしまうのだろう。

例えば、朝起きて、ご飯を食べて、また寝る、ただそれだけで一日を過ごすなんてことができないのか。いや、その食べるものを作るために人間は労働をしてきたわけで、ウチの犬だって、野に放たれたら狩猟生活になる。

散歩の途中で側溝から出れないタヌキを見つけた。タヌキは怪我をしているようだった。犬が飛びかかろうとしたので慌てて制御した。家からドッグフードを持ってきて食べさせようと戻るとタヌキはもういなかった。

午後は炭焼きの師匠が訪ねてきた。作業をやろうと思って来たけどこっちは吹雪だね、ということで雑談した。師匠は若い頃、登山をやっていた。もう50年近く前の話だ。だから、今とは装備も違っていて、テントは今みたいに薄いナイロンではなかったし、寝袋も軽量化されてなく暖かさが足りないから古着のセーターを何重にも重ね着して寝たそうだ。だから、テントよりも心地よいのは雪山で雪を掘って洞穴のようにして寝たことだとか、絶壁を登るところなんて、滑落して死んだ人の数だけお墓が並んでて、それは地獄の谷底みたいで不気味だったよ、と話してくれた。

師匠が帰ってまた犬の散歩に出かけた。犬も覚えていたみたいで、タヌキがいたところへ着くと真っ直ぐに向かっていった。もういないよ、と思ってたが、よく見たら、まだタヌキは側溝にいて、犬より先に気づいたので迂回して散歩を続けた。

野生のタヌキは、そのままだったら死んでしまうだろう。けれども野生なのだから、そのまま死ぬ方がいいのだろうか。もし怪我だとしたら数日命を繋ぐことができれば、回復して生き延びるかもしれない。もしくは、イタズラに延命しても苦しみが延びるだけなのかだろうか。

もし自分が雪山とかで遭難して立ち往生して、どうにもならなくなったときに、何かの奇跡で食料を手に入れたら、その数時間でも命を永らえたなら、どうやって生き延びるか考えるだろう。その延びた時間は苦しみなのか。

散歩から戻って、再びタヌキのところへドッグフードを持って行った。ビニール袋からドッグフードを側溝に落とすとタヌキは、音に驚いて慌てて逃げようとした。やっぱり足を怪我していて、ゆっくりとのそのそと移動した。見ていると食べないだろうから、そのままその場を離れた。

翌朝、また犬の散歩でタヌキの様子を確認したら、ドッグフードも食べてなかったし、周辺の雪のうえには、いくつかの動物や人間の足跡があるだけだった。