いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

感覚すること

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最近は本をよく読む。本は未だ知らないことを体験させてくれる。教えてくれる。その世界を案内してくれる。本は読むだけでなく実践するもの。そこで得た知見を自分にインストールして行動するもの。そのつもりで哲学や思想の本を読んでいる。行動したことの先に理解がある。専門家のように文字だけ読んでても、ぼくには残念ながらその意味を理解できないようだ。だからこそ、それがオリジナルや個性に発展できるとも転換できるのだけれど。良いも悪いも捉え方次第。

感覚は身体に衝撃を与える。しかしそれは脳を経ることなく、表象や、記号や、イメージや、幻想も介することなく、身体そのものの内的な力に、細胞や器官や神経系に、直接衝撃を与えるものである。感覚はいかなる媒介も翻訳も必要としない。それは表象や記号や、象徴ではなく、力、エネルギー、リズム、共振である。感覚は、知覚者の身体、主体の身体ではなく、芸術作品の身体のなかを生きている。芸術とは、身体が、皮肉にもほとんど表象の媒介なしに、もっとも直接的に感覚する仕方である。なぜなら、芸術は身体に属しているからであり、芸術のみが以前には一度も経験されたことがない感覚、おそらく別の仕方では経験することができない感覚へと身体をひきこむからである。

「カオス・領土・芸術」エリザベス・グロス

 

読書も同じで、書かれている文字世界に没入すること、自分自身がそこにあるとき読書をしている。気が散ったり読めないときは、感覚がそこに至ってない。もしくは本に原因があることもあるし、自分の状態なのかもしれない。

自分が作品をつくることの意味を考えている。何を作るのかを考えるのではなく、なぜつくるのか、それを問う。その答えがみつかれば作品は溢れ出てくる。浮かんでくるイメージを検証したり、優劣について悩む必要がなくなる。

ぼくは「生きる」ということを問い続けている。なぜ生きるのか。生まれたから。だったら、もっとよく生きられるはずだ。よいとは優劣ではない。数字でもない。感覚だ。自分が今日を過ごして、よい日だと感じること。その感覚を生み出す仕組みを発見するのが、生きるための芸術の仕事なのだ。

仕事はつくることができる。依頼される以前に、ニーズがある前に、未だ存在しない仕事に取り組んでみる。もちろんお金にはならない。けれどもこれが生きるために必要な仕事になる。なぜなら自分が必要と感じる活動はほかの誰かにとっても必要なものだから。すべての人が生命活動をしていて、「生きる」と無関係な人は存在しない。だから生きることについて未だ仕事になっていない領域を開拓するのは社会貢献でありアートだし遊びだし、冒険でもある。

芸術家。最初に境界標を立て、しるしをつくる人物。

ドゥルーズガタリ

 

大地のうえに暮らしをつくった。使われてない土地を再生した。何もないと言われるような地域に何かを作った。たぶん、ぼくはこの地域に境界標を立ててしるしを作ったのだと思う。何もなかった地域に、選択肢豊かな暮らしのカタチがあり、炭焼きという文化が再生され、桜の苗が植樹されて景観がつくられている。大地のうえに表現がある。美術館やギャラリーには収蔵できないし、誰も購入できないけれど、たしかにここに来れば、身体が感覚する。

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生活をつくった先に何をするか考えていた。それは表現する先であり、活動を続ける道。昨年からオファーを貰っていた北海道のとある土地でのプロジェクト。それは具体的に何をするのか。新し過ぎて取り組み方が見えなかった。それが見えてきた。

 

Land reading- 土地を読む

その土地に滞在して、その土地にある意味を発掘し、資源を発見する。その土地に暮らす人たちの話を聞いて、物語を発掘する。それらをアートとして可視化する。

記録すること、文章化することは、旗を立ててしるしをつくることだ。行き先の地図は自分を濾過して浮き彫りにされる。行動するなかで得られるインプットを経験に彫り出す。インクは経験だ。空っぽの自分を満たすカラーをチョイスする。自分とはチクワのようなもの。空洞。器を何で満たすのか。

怒り、不満、悲しみ、喜び、カオス、リズム、矛盾、嘘、愛、アート、なんでも選ぶことができる。