いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

壊れた「社会」に対抗するための環境彫刻

2021年3月1日に書いた。でも何かが違うような気がした。2021年4月7日に読み直おして手を加えた。

------------------------
死は突然やってくる。いつも生きることの隣に死がある。だから、やりたいことを全力でやった方がいい。ぼくの場合は、創作に没頭すること。これを人生の主軸にしている。

「狼と暮らした男」という本を最近読んだ。ロッキー山脈の狼の群れのなかで、生身の人間が2年間も野生動物と暮らすという話。ほんとうにそんなことができるのか信じがたいエピソードが盛りだくさんで、常識的な考え方にはリミッターがかかっていると気づかされた。読みながら、ほんとうなのかと疑う自分がいた。

この本のなかで、野生の狼と暮らした経験が「犬のしつけ」という仕事に展開していく。どうにも「野生」での経験が「しつけ」に変換されることが、受け入れがたかった。この違和感に向き合うと、意外な側面が見えてくることがある。今回は動物を飼うという行為に賛成できないので、犬のしつけのページは適当に読み飛ばしていた。

ところが、だ。妻チフミのお父さんが倒れた。70代半ば。家族は死を覚悟した。緊急手術のおかげで一命を取り留めている。チフミのお父さんが倒れて、お父さんが飼っている犬を一時的に預かることになった。犬を飼う? 犬を飼うなんて、微塵も考えたこともなかったのに、あの本で働いた感情は予感だったのか。というわけで数週間後には犬と暮らすかもしれない。予測できないことを受け入れられるキャパを持っていたい。人生は作るよりも作らされることの方が多い。

ぼくは学者でも教授でもない。肩書は芸術家。自分はアートを研究している。生きるとは何か。表現とは何か。言葉の定義から作り直している。言葉はオブジェだ。あらゆる角度から読み解くことができる。ぼくは「アート」を語源のアルスから読み解き「技術」と解釈している。アートは技術である。それはどんな技術かといえば、源流まで遡るアート(技術)だ。だから自分のアートを他者のそれと区別して「アルス」呼ぶことにした。

例えば、今日は炭焼き窯をつくる準備をした。前回失敗して壊れた窯の土をスコップで掻き出した。パワーショベルでやればすぐ終わる仕事だけれど、手でやると細部を観察できる。ここは焼き締まっているけれど、ここは脆いとか、状況を知ることができる。おかげで検証できた。炭窯を失敗するという事件の現場検証だ。炭焼き窯づくりは過去に2回失敗している。前回の敗因は、パワーショベルで土を載せたこと。土を叩き締めるチカラが足りなかったこと。その2つと推測される。人力でコツコツと作業すれば、丁寧に土を叩き締めることができる。パワーショベルを使うと機械のペースで作業が捗り過ぎて、細かいところが雑になってしまう。

たぶん「炭窯をつくる」とか「犬と暮らす」とか、そんなことはいわゆる学校で教える「アート」ではない。けれども、ぼくが考える「アート」とはこれであって、世間の言葉と自分の言葉が乖離している。これでいい。だからその溝を埋めるなり、橋を架けるなりするために、言葉を費やしている。書くという行為そのものもまた別のレイヤーで表現している。探求している。同時に幾つもの経験を積んでいる。

この数年「社会彫刻」という言葉を使ってきた。このヨーゼフボイスの概念を引用してきたのだけれど、ここ最近「社会」という言葉が分からなくなった。何を指しているのかイメージできなくなった。で幾つか本を読んで「社会を知るためには(筒井淳也著)」で、思わず笑ってしまった。

社会とは「わからないもの」と書いてあった。しかも、理解するために論理化するほどに複雑になっていく。あまりに複雑になり過ぎて、現在はこれだとひとつの回答を出すのではなく、ある視点からの読み解き方を提案する方法論になっているという。世の中には、分かっていることより、分からないことの方が多い。なぜ人は生きるか。いつ死ぬのか。なぜ犬を飼うのか。これをこうしたら社会はこう変わるという方程式が成り立たない。「風が吹けば桶屋が儲かる」だ。

ぼくは「生きる」の探求者として、2つの方法論に従って人生を進めている。ぜひ覚えておくといい。ひとつはコラージュ。ここにはセレンディピティと呼ばれる「何かをしているときにその目的は違う何かを発見する」秘儀がある。妻の父の病気によって、まさか犬と暮らすことになって、ぼくはその経験から何かを発見する。これがセレンディピティーだ。コラージュはアート技法だけれど、これのおかげで予想外の出来事を受け入れられるようになった。

もうひとつは「社会彫刻」を発展させてつくった「環境彫刻」という概念。ここでの環境とは、自分を起点に広がる周辺環境のことを指す。自分自身の周辺環境を彫刻して、理想の生活空間をつくること。「社会」という言葉は、いつどこで誰が何をするのか、それを明らかにしない。社会には主語がない。主語がないから、行動する言葉に変換できない。社会にはアクセスする回路がなくて、政治とカネが操作する手段だけれど、完全に壊れている。だから自分の目の前から広がる世界をつくること。それを環境彫刻と名付けた。

2021年になっていよいよ「社会」という概念自体が機能しなくなったと感じている。10年前には東日本大震災による原発事故があり、いまではコロナウィルスとの共存を強いられている。こうした災害は、社会の機能を麻痺させる。しかし社会は止まることがない。機能が弱まって動きが鈍化するだけだ。けれども競争が冷戦状態のとき、社会のスピードが遅くなったとき、この暴走する社会から脱出するチャンスがある。社会に飲み込まれて生きるのではなく社会と距離を取りながら、自分自身の環境を構築するチャンスだ。

例えば、ひとりの社員が会社全体の体質を変えるのは難しい。けれども、会社で所属する部署の環境を変えることならできるかもしれない。もっと言えば会社の自分の机の周りの環境ならきっと変えることができる。同じように社会を変えることはできなくても、自分が住んでいる街なら住みやすい環境に変えることができるかもしれないし、自分の家の周りならきっと変えることができる。

ソーシャルネットワークの出現から「共感」が世の中を支配してきた。けれども同じ気持ちなんてひとつもない。気持ちもまたオブジェだ。多角的に観察すれば同じことを言っているようで全然違う。むしろそれが豊かさだ。大切なことは誰かのアクションに反応する傍観者としてではなく、主体として主人公として生きることだ。

生きているだけで奇跡だ。どうして「生きているだけで、最高!素晴らしいね!」とならないのか。命という祝福されるべき奇跡が社会に放り込まれることで、傷つき輝きを失うのならそんな社会に接続するべきではない。

生きると死ぬは一直線に繋がっている。けれども社会を通した直線は、まったく予想外に展開していく。思い通りになることなんてない。濁流に飲み込まれていく。アートは社会に押し流されていく、本来的な大切なものを杭のように打ち付けていく。人間として忘れてはならない感情を。

優れているとか劣っているとか、勝つとか負けるとか、そういうことではなく、生きていることそのものに価値がある。等しく。しかし、その喜びは残念ながら、社会と闘わなければ手に入らない。まだ2021年は、その程度の自由しかない。けれども動き始めればその自由を手にすることができる。なぜなら、これは競争ではないから。それぞれが望んだ場所に向かうだけのことだから。

妻チフミのお父さんは、ぼくの生き方に何も言わなかった。いつも受け入れてくれた。それは、どんな言葉よりも、励ましであり応援だった。