いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自称芸術家田舎暮らしのある一日の記録(3月16日)

3月16日に書いた。

絵が完成したからテキストと併せて記録しておく。

f:id:norioishiwata:20210407080116j:plain

朝5時に目を覚ました。オーダーされた絵の景色をみつけるために海へ行った。雲があったし、5時30分が日の出だから、期待は低かった。海まで20分。クルマを走らせるとチフミが「空が綺麗!」と声を上げた。朝焼けがはじまっていた。二ツ島観光ホテルの駐車場を借りて撮影した。

ぼくは青色が好きだ。空が好きだ。海が好きだ。空は真っ青だったり、水色だったり、紫色や紺色や、グラデーションを出したり、夕焼けとか、とにかく美しい。そいう景色を絵にすることが最近は多くなった。みつける景色のほかに景色をつくるという制作もやっている。これが今は自分のなかで最前線にある活動だ。環境を彫刻している。

景色をみつけるために早起きして、海から帰ってきてまだ7時だった。桜を植樹をする準備で業者が伐採している山にいって、チフミと木を運んだ。山の所有者のお婆さんが「細くて長い木を何本か貰っとけ」と言ったからだ。山から木を出して8時になった。日課のストレッチをやった。身体の中心を確認して、全身を伸ばす。指先から足の先まで。身体も思考も自分に向き合う必要がある。自分が存在しなければ、見えている世界は消えてしまうし、自分が調子悪くなれば、見えている世界も歪む。それほど世界の中心軸なのに、多くの人は「自分」を雑に扱う。

昨日から3冊目の本を仕上げるために文章に向き合っている。そのやり方が最適なのか分からないけれど、言葉が出てくるままに文章を書いて、どんどん削って無駄を削ぎ落していく。何回も書いていると同じ内容でも違う言葉が出てくる。またそいう言葉を配置して、何度も読み返して、並び変えたりして文章を構成していく。何度も読み直していると、感覚がマヒしてきて、読みにくい文章に慣れてしまう。そうしたら原稿書きの作業は終了する。

薪棚をつくった。薪ストーブでひと冬を越して、どれくらい薪が必要か分かった。廃材で貰ったパレットを使って薪棚をひとつ追加した。それで午前中の仕事を終わりにした。

昼飯は近所のお婆さんの家に食べに行った。チフミは午前中、お世話になっている近所のお婆さんこと澄子さんのジャガイモ植えを手伝っていた。80歳でひとり畑仕事は重労働だ。自分たちの畑をやるより澄子さんの手伝いをした方が勉強になるし、生きるために働く、その活動の境界線が、他者と自己とが曖昧な方がいい。生きるために必要な資源に関しては、水とか食料とか土地とかは、これは俺のモノ、これはお前のモノ、という考え方は古い習慣になればいい。

お昼をご馳走になって、午後は絵を描くためのパネルをつくった。パネルをつくって、額をつくって乾燥させた。15時から仕事の打ち合わせだった。知り合いの会社で人手が足りないから数日手伝って欲しいと相談に来た。ぼくのような生き方をしているとお金に無頓着で、時間だけはあったりする。もちろん暇なんて1秒もなくて、やりたいことで溢れているけれど、文章と同じでやり過ぎると、何がしたいのか見えなくなってくる。たまにはアルバイトなどして、絵を描きたいと強く思うくらいのコントラストがあった方がいい。

打ち合わせが終わって、小林秀雄岡潔の対談「人間の建設」を読んでいたら、文章が書きたくなってこれを書いた。