いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

何かをしたときに別の何かを手に入れること。

天気はよくて空は青いのに、門の外には出れない。朝から夕方まで工場を整備する部品を削っている。

友達の会社の人手が足りないからと、8時30分から17時まで工場で3日間働いた。ぼくも毎日仕事をしているし働いているけれど、いまは納期もないし、ある程度調整できるし、友達が困っているからその仕事をやることにした。工場での労働はいつもに比べて不自由で無口になった。感情を押し殺した方が過ごしやすかった。工場が悪いという話ではなく、そこにはぼくの仕事はなかった。たった3日間離れただけで、自分がつくった生活が愛おしくなった。妻と二人で絵を描くこと、桃源郷と名付けた景色をつくること、地域のお年寄りたちと可笑しく楽しくお話すること、その日常のなかに自分の仕事があることを再確認した。

友達の仕事は3日間で充分間に合いそうだったので、やるべきこと、やりたいことは山のようにあってずっと自分の生活を仕事を作り続けていることに気がついたから、それで終わりにした。実際、桜の植樹の準備もしなければならなかった。

工場での仕事は必要な時間だった。離れて分かることがある。工場で一緒に働いた人に自分が何をしているのか説明することも、いま書いている本の参考になった。絵を描くということだけでも何をしているのか想像もつかないのに、さらに生活をつくっていると言えば余計に意味不明だろう。自分と社会との距離もよく分かった。

もっとも大きな収穫は軽トラックだった。友達にいま軽トラックが欲しくて、オートマ限定解除の教習に通っていると話すと、ちょうど軽トラックを買い替えて、処分する古いのがあるから使うか?と言ってくれた。一番欲しかった軽トラックを手に入れることになった。

工場で働くことを選択したことによって、金額には換算できない豊かな収穫があった。実際、手伝った分の給料はまだ貰っていない。貰ったら幾らか分からないけれど、少し足して、絵を買おうと思う。ぼくは絵を描くけれど、絵をたまに買う。なぜなら、絵を買うとその価値を知ることができる。絵のチカラを体験することができる。5万円とか10万円で絵を買うことは、人生になんの足しにもならないようで、体験してみると分かるけれど、もちろんその絵が良い絵ならだけど、そのお金は消えてしまうようだけど、その対価として与えてくれる豊かさがある。毎日眺めることや、それ以外のもっと想像以上の、ぼくが工場で働いて手に入れた収穫のような何かがある。

ぼくは、そうした経験を制作に反映させて、絵を描き人生をつくっている。想像もしなかった何かを手に入れるときぼくは、人生は正しい方向に進んでいると安心する。

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