いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

楽園を目指している。

文章を書き続けていて、やっぱり本が好きでモノとしてつくりたいという想いがあって、続けているうちに少しずつ成長していく手応えがあって、それは今書いている文章がよくないと感じる時がきっかけで、その違和感をどう乗り越えるか考えてまた書いてを繰り返して、ようやくそのときに感じていることを言葉にできるようになる。

今は三冊目の本を書いていて三カ月前に第一稿を書き終えた。一旦製本してみてサンプルで20部つくった。出版社が決まっているわけでもないし編集者がいるわけでもないから、やれるところまで全部自分でやっている。いないからというよりも本が好きだからレイアウトもデザインもやりたい。だから執筆と編集もひとりでやっていて、どうしても前のめりになって客観的に読めなくなってしまって、三カ月前に寝かせることにした。その期間はまったくこの本に触れないでいた。三ヶ月経って新鮮な気持ち読み直してみたら、書き足りないところ、余計なところがはっきり見えてきた。

誰に向けて本を書いているのか、それを明確にすると文体や内容が決まると編集をやっている人に教えてもらった。誰にむけているかと言えば、妻の両親、甥っ子や姪っ子がもう少し大人になったとき、友達の子供が大人になったき、そういう人たちに届けたい。

こんなことを書いて何になるのか、という話もあるけれど、文章を書くことは内容は何でもよくて、それが書けるかどうかが問題だと思っている。絵も同じで何かを狙い過ぎて描けなくなるよりも、描きたいものを描くのが精神的にも生き方としても気持ちがいい。

三カ月間寝かした本に手をつけたので頭のなかで書き足したいことがグルグルしている。昨日は目を覚ましてから夕方までずっと文章を書いた。この本はまだ下絵ができたレベルなので先は長いけれど、そうやって表現に没頭して向き合える時間を持てることが何よりも楽しい。

もちろん本を読むのも好きで、寝かしていた三カ月間は図書館で借りたり、買ったり、10冊くらいの本を読んだ。とくに面白かったのは「楽園への道」、「極北へ」、「狼と暮らした男」、「新・冒険論」、「人新世の資本論」。

ところが、寝かしていた本に手を出したら途端に本が読めなくなってしまった。だから「オン/オフ」は必要なんだと実感した。言い換えるとインプットとアウトプットの時期というのがあるのだろう。でも絵に関しては、インプットはもうほとんど目の前の景色、つまり自然がメインだから誰かが作ったモノからの影響は少なくなった。この数年に影響受けたのは、熊谷守一、柚木沙弥郎、田中一村熊谷守一と柚木柚木沙弥郎の絵を単純化する技に引っ張られつつ、田中一村の描写に学びながら、自分の絵画表現を追求している。絵を描くというよりは額も含めてモノ=オブジェとして作品を制作している。

文章を書くことと作品をつくることの間に生活をつくるという活動がある。いま書いている三冊目の本はその橋渡しをするために書き続けていると、これを書きながら気づいた。創作活動は、ほんとうに人それぞれのペースがあって、他者と比較したらそれはストレスと失望以外の何物でもないけれど、競争のためにしているのではないから、モノづくりしている人は、そんなことに苦しむ必要は微塵もない。自分にそう言い聞かせている。こうした文章を書くのも自分の表現のフィールドを耕すためにしている。

表現することの意義をお金に換えてしまえば、それは多くの収穫を取りこぼすことになる。大地から食べ物を手に入れることに例えるなら、食べ物を掴むことが成果なのではなく、それに至るまでのすべての経験が糧になる。ぼくの場合は、絵を描くこと、文章を書くこと、生活をつくること、そのほか、やってみたい表現に手を出すこと、すべてが人生を豊かにしている。

2年前にバリ島で描いた絵に額を閃いたので、作って額装して完成した。いい絵が描けるということも大切だけれど、描いたものを暖めたり、寝かしたり、その作品に必要なだけの時間を与えてやれる余裕を自分に持つことも大切だと思う。なにより死ぬまで創作を続けることが目的なのだから。

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