いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

炭窯づくり。そこに現代アートを接続できるのか。

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炭窯づくりに失敗した。これで2回目。前回の反省点(古い窯の再利用では土が定着しない、乾いた土を使うこと、大人数でやると細部への配慮が届かない)を生かしてやったけれども、窯の天井は落ちてしまった。

そもそも窯を作るのは、人間がしてきた生きるための創意工夫をアートと見立てて「生きるための芸術」というコンセプトを探究するプロジェクトのひとつ。だから失敗することは、それほど問題じゃない。むしろ、二回やったことで窯への興味と成功へのモチベーションが高まっている。

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「生きるための芸術」を伝えること。これ自体が自分のライフワークになっている。伝えることの難しさが、同じテーマを掘り下げていくモチベーションにもなっている。

生活をつくること。この取り組みのおかげで、自分の生活はアートになった。はじまりは宮本武蔵の「戦場が日常で、日常が戦場になれば負けることはない」という文章に出会ったときだった。武蔵は「千日の稽古を鍛とし 万日の稽古を練とす」という言葉を残している。

日々の生活がアートだったら、どうなるのか。絵を描くという行為が、カンヴァスや作品に向かうときだけでなく、それ以外の時間も表現行為だとしたら、それはどういうことになるのか。

日常の行為そのものが美しくあること。それはどういうことなのか見渡してみると、日本人の伝統的な文化、茶道がそこにあった。芸術表現の個性を自分のルーツのなかに導き出すとき、茶道が志した生活の芸術という態度を現代アートの座標に撃つことができる。なぜならそれは歴史上芸術だったことがあるから。作家として、自分がどこからやってきて現在の表現活動を行っているのか、そのことに自覚的に確信的にやる必要がある。アートとは、そういう競技なのだから。けれども答えはひとつではない。常に書き換えられていく。だから書き換えた地図を提示し続ける必要がある。

ぼくは「生活芸術」という表現行為を現代アートとして位置づけようと企んでいる。無謀かもしれない。けれど、社会には現代アートという表現が存在するのだから、接続することは不可能ではない。

生活と芸術。まったく異なる星を融合させる創作。天体を折り畳んで、新たな星座をつくる試み。

炭窯づくりは、生活芸術という人類がしてきた行為のなかでも最古の表現だと言うことができる。人間が火を使うようになったのが45万年前。炭は日本国内では愛媛県広川町の鹿の川洞窟から発掘され、30万年前から使用してきたとされている。

現在の木炭という形を作り出す技術は、紀元前17世紀頃 ~紀元前11世紀(1046年ごろ)の中国最古の殷(商)王朝時代だと言われ、青銅器の鋳造や陶器づくり、製錬、絵画、化工、医薬などで、木炭が広く使われていたといわれている。

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手元に、炭窯づくりを失敗して崩落した天井の破片がある。土が火で焼き固められている。これを素材に作品にして、これを展示することで、人類の歴史のはじまりに遡るように、思考をタイムトラベルさせることはできないだろうか。

わたしたちは、遥か大昔から生きるための工夫をしてきた。そして今、わたしたちはどれだけ生きるための創意工夫をしているのだろうか。