いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

22世紀の生活芸術家たちへ(作品集あとがきの試論)

妻のチフミとぼくは2021年現在、北茨城市の山間部の集落に暮らしている。東京からクルマで3時間の北茨城市は、小さな山に囲まれ、太平洋沿いに位置している。人々は自然に囲まれて暮らしている。畑を耕し、魚を獲って・・・という暮らしのイメージは、ほとんど、ぼくの幻想でしかない。実を言えば、お年寄りは畑や田んぼをやっているけど、若い世代は、街の方に暮らすのを好む。

自然と共に暮らすという幻想を見ているのは、ぼくだけではなく、北茨城市と共に4年前から取り組んでいる「芸術によるまちづくり」として実践している。だから現実でもある。つまり、理想と現実が揺れる境界線を描いているともいえる。多くの人が街へと流出していく時代のなか、ぼくたちは、山の限界集落へと移り住んだ。そのおかげで、ぼくたちはランドスケープをつくるという、奇跡的な仕事をしている。

6年前にぼくたち夫婦は、旅をはじめた。40歳を前に東京の生活にピリオドを打って、スペイン、イタリア、ザンビア、エジプト、モロッコ、ヨーロッパとアフリカを巡った。そのとき、人間の生活の仕方は、こんなにも違うということを学んだ。それが多様性だとも知った。多様であることは自然そのものだ。けれども、経済成長を目指す社会は、一方向に人々を均質化して、人々もまた同じ方向を目指して競争してしまう。

スペインでは舟を自作する作家と、身の回りの素材で彫刻をつくる作家に出会い、イタリアでは田舎で制作する経験をした。ザンビアでは、身の回りの素材、泥で家を建てた。エジプトでは、革命の余波のなか、不安定な社会情勢のなかでも人々は生活を営んでいた。その人々に理想の暮らしについてアンケートした。モロッコでは、現地の人の生活、とくに田舎の方で、馬に乗る姿や、大地を耕して野菜をつくること、羊を殺して祝祭や肉を得ること、身の回りの素材で窯をつくりパンを焼くこと、地面に穴を掘って、鍛冶をやる様子などを観察した。

このような経緯で、アートとは何か、という問いにひとつの道を発見した。アートとは生き延びるための技術だった。それを「生きるための芸術」と名付けた。これは、答えではない。ぼくの奇妙な閃きに過ぎない。だから、日本に帰国して、旅のなかで遭遇した出会いと発見をコラージュして、理想のライフスタイルをつくりはじめた。ぼくたち夫婦の旅は、まだ続いているらしい。

絵画や彫刻のように、想像力によって自分の目の前の現実を作り変えることができる。それを証明するために実践している。

ヨーゼフ・ボイスは「社会彫刻」という概念を提唱した。言葉の通り、社会を作り変える表現行為を意味している。エジプトのアンケートの作品には、その言葉を引用した。しかし「社会」という言葉は、いくらか古い概念になっている。というのも「社会」という語は何も具体的に示さない。いつ、どこで、誰が、何を、そのすべてに答えない。ここで伝えたい最深部へと案内するには、この概念をアップデートする必要がある。彫刻するべき対象を、社会という曖昧な概念ではなく、より具体的にする必要がある。社会を変える起点は、一人ひとりが自分の目の前を彫刻することだ。つまり、自分自身の周辺環境を彫刻すること。それを新たに「環境彫刻」と呼ぶことにしたい。例えば、ひとりの作家が環境彫刻をするということは、大地を耕すことに似ている。それは作品という果物を実らせるための土壌をつくること。つまり環境彫刻とは、2重の意味でカタチをつくっている。自分自身の周辺環境を構築すること、作品自身の環境を構築すること。これはゴーギャンの傑作の題名「我々は何処からやってきて、何者なのか、そして何処へいくのか」に対する返答でもある。

芸術作品が、美しい絵を描けばいい、ということではなく、どのように暮らして、どのような素材で制作するのか、その視点から、作品が生まれてくる土壌から作ることで、作家の生活から作品まで、何処からやってきて、何処へいくのか、それに答えることができるようになる。表現行為を通じて。それを社会という曖昧な対象ではなく、自分自身の見ている世界で実践することで、芸術活動を、実社会を変えていく運動へと変換することができる。もちろん、これは、人類にとって未来が少しでもマシになればと願うのであれば、という前提もある。

アメリカのSF作家、カートヴォガネットは、芸術家をカナリヤに譬えた。炭鉱を掘り進めるとき、ガスが出る危険を察知するために最前線にカナリヤを連れていく。人間より敏感なカナリヤは、鳴き喚いて、その危険を知らせる。これもアップデートしよう。なぜなら、ぼくら夫婦の作家名、檻之汰鷲とは、檻から自由になることを意味している。籠から飛び出したカナリヤは、大空を羽ばたく鷲になる。鷲は、自分が生きるための生命活動をする。自然のバランスのなかで。実は、何千年、何万年もの遥か太古に、人類にとって必要なエレメントは出揃っていたのではないかと想像する。表現をするということは、芸術に限ったことではない。仕事にしろ、会社にしろ、何をしていても、そこには表現がある。そもそも、日々何かを選択して編集しながら生きていること自体が表現だ。

だから、「サバイバルアート」「生きるための芸術」「生活芸術」というコンセプトを編み出しながら、人間の生命活動の原点を表現したいと企んでいる。

地球儀を目の前にこの先の物語を想像している。地球儀を回転させ、指で止めた任意の地で営まれている生活様式を採取して、それを作品にしたい。都市を中心と呼ぶのなら、世界のほとんどは端っこだ。その端っこにはまだきっと、古くから営まれてきた生きるための技術たちが棲息している。特別な何かである必要はない。この世界に中心はない。社会はピラミッド型でもないし、競争や勝ち負けもない。日常生活のなかにあるアートを拾い、磨いて、人々に宝物として提示してみたい。


(2021.2.19/作品集あとがきの試論)