いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

芸術活動という多様性

明らかに新しい環境に突入しているので、状況を知るためにも日記を書くことにした。9月の終わりに、文化庁の芸術家支援助成金に応募して20万円の補助を受けることになった。30万円の予算に対して20万円、つまり2/3を支援してくれる。だから20万円の支援のために30万円の企画をつくった。ちなみにこの予算は自分への給料は支払えないことになっている。

実際に企画を動かしてみると、お金を支払ってやろうと思っていたことが、カタチにならなかった。A案からB案に変更していくうちに、自分でやった方が早いし確実だと思った。自分でやるとなると、予算は半分ほど済む。つまり支援は10万円ぐらいになる。うーん、どうしようかと妻チフミに相談した。

チフミは「少なくていいんじゃない。余計なものは余計なのだから」
と言った。

自分でやれることはできるだけ自分でやる。この姿勢でやってきた。おかげで自分がやりたいと思うことを誰かに頼らなくてもできるようになっていた。

補助金で作品集をつくろうと考えていた。結局、編集、原稿、デザインを自分で全部やって、冊子の印刷と英訳だけ発注することにした。

30万円の予算と15万円の予算、金額が多い方が良いものがつくれそうな気がする。せっかくお金があるのだから全部使いたい、そう考える。けれど、必ずしもそうではないらしい。とても勉強になった。余計にお金を費やすと、その分、余計な働きが増える。

資料代として計上した3万円があったので有難く本の購入に充てた。身の回りの環境から作品をつくるというコンセプトの目標は、いまのところ土器にある。陶芸と呼んでもいいけれど、いわゆる陶芸的なルールは無視して、土と水と火で器をつくることから始めたい。だから、バーナードリーチの本と、柳宗悦の陶芸の本、レヴィストロースの「やきもち焼きの土器つくり」など購入した。

日記は、自分のしていることを俯瞰しするために書いている。していることはバラバラで自分でも分からなくなることがある。いまのところハンナ・アーレントの「労働・仕事・活動」という分類が軸になっている。

自由になるほどに自分という人間が見えてくる。とにかくやり散らかしていく性分らしい。景観をつくるとランドアートを宣言して、草刈りや木を伐ったり、芸術だと絵を描いたり、最近は紙をつくった。これにコラージュをしようと思っている。コロナの影響で空いてしまった店舗をギャラリーにできないかと東京の友達と画策している。北茨城市の海のそばの空き家を改修して別荘みたいものを販売できないかと不動産販売をする友達と企んでいる。山道を開拓するとか、サーフィンとか、野菜をつくるとか。

昨日はギャラリーを見学に来てくれた人が絵を買ってくれた。その絵をSNSに掲載したら絵の依頼が舞い込んできた。

食べるための「労働」は、近所の人からの野菜のおすそ分けや、たまに売れる作品、また景観をつくるための活動が集落支援員として給料を貰えている。そんなこんなで生きている。

ハンナアーレントがいうところのカタチにのこすための「仕事(ワーク)」は絵画作品、地域の景観、古民家を改修したギャラリー&アトリエ「ARIGATEE」、廃墟の「D-HOUSE」、書籍の出版など、どれも依頼されたわけでもない。アーレントのワークは、つくるというより「建てる」と解釈すると分かりやすい。人類に有用なことを作品として残していく作業が「仕事(ワーク)」だから、それは「つくる」だけでは何か足りない。つくる以上に何かしらかの媒体に基礎からしっかり残るように仕上げる必要がある。だから「つくる」ではなく「建てる」と言い換えた方がいい。本を建てる。絵を建てる。景観を建てる。どれも記念碑となるほど、うち建てる。

ぼくの活動とは、このやり散らかしているすべてがそうだ。ただこうして俯瞰してみると、どの活動のなかもに「仕事(ワーク)」を建てるきっかけは転がっている。それを作品にしていくことを意識しておけば、たぶんとん挫することも、破綻することもなく、続いていくと思う。

それでも自分が目指している地点に向かって進んでいるのか、たまに確認する必要がある。本を読んだりネット見たりして、共感して励まされることはあっても、それだけでは自分の活動も仕事も進んでいないし、点での接点はあっても、面や線では、それは自分のワークではないから、まったく違う方向を目指している。

図書館から借りてきた本をいろいろ読み漁ったけど、井筒俊彦「意味の深み」がまさに意味の深層へと導いてくれた。「自我」と「自己」、表層に自我、その下層に自己があって、自己が形成されたうえに自我があれば、コントロールできるけれど、自己がないままの自我だと、流されてしまう。(この部分だけ取り出しても、伝わりににくいだろうけれど)何事も、多層、多角的に捉えるような柔軟さが必要だ。日常、ぼくたちが仕事と呼んでいるものも、アーレントの「労働・仕事・活動」のようにさらに細分化して、認識を新たにできる。一緒にして分類しなければ、何が苦しいのか理解できないまま全体混乱して振り回されてしまう。そして自分がどうしたいのか分からなくなってしまう。

自分の興味のひとつに「自分とは何か」という問いもある。だから禅や哲学、思想に興味を持っている。いま自分のところから、芽が出ようとしている取り組みを俯瞰してみつけて育てていく。そいう眼差しと姿勢、それができる環境をつくり維持すること、それ全体がぼくにとっての芸術活動だと言える。