いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きる つくる 働く3

世界中のひとたちがどうやって生きているのか。ほかの国の芸術家はどうやって生きているのか。ぼくは、それを知るために妻とスペイン、イタリア、ザンビア、エジプト、モロッコを巡る旅に出た。(詳しくは「生きるための芸術ー夫婦40歳を前に退職。芸術で生きていけるのか。」読んでみてください。)

ぼくがいましている生き方は、この旅のなかで遭遇した。つまり偶然出会った至るところの暮らしをカット&ペーストして生活をつくっている。ぼくは、旅で出会った人々から学んだことをそのまま日本で実践している。旅することは、非日常に遊ぶのではなく、日常のその先を切り拓く眼差しをみつけるためだ。海と共に暮らすライフスタイルは、スペインのバルセロナで出会った芸術家マーク・レディンから学んだ。

マーク・レディンは、アイルランドの出身で20代の終わりに単身バルセロナにやってきた。バルセロナの郊外に倉庫地帯をみつけ、そこに暮らし始めた。次第に仲間が集まってきて、倉庫地帯はアーティストの住処になった。ヨーロッパの様々な国からの移住者が集まっていた。ぼくはバルセロナの倉庫エリアで出会った人たちから、生活は安定しないものだと教えられた。綱渡りしながら生活水準は低くても、代わりに表現しながら生き延びていくやり方を見せてもらった。日本人だったら10代のような気持ちを何歳になっても持ち続けているようだった。

マークは油絵の画家で、それに加えてカラックというアイルランドで伝統的なボートをつくる。マークはこの舟で海に出ることを生きる楽しみとして、日々の習慣として油絵を描いていた。油絵と舟をつくることのコンビネーションが彼の唯一無二の芸術スタイルだった。それはまさに生きる芸術だった。マークが、すべて木から作るこの舟は素晴らしくDIYで、原始的でありながら安全に海のうえを滑走する。何百年も前から、そうやってきた先人の息吹を感じる乗り物からぼくは太古のアートを発見した。

「明日、海へ行こう」マークは海を予測してぼくらを誘ってくれる。ボートを漕ぐのは3人。乗り合わせた3人で力を合わせてボートを漕ぐ。時には釣り糸を垂らして魚を獲る。収穫があればお昼はチフミが魚をお寿司にした。午前中、体を動かして頭を空っぽにして、午後から夜まで絵を描く。創作に没頭する。来客があればみんなでお喋りして、好き勝手に創作へと戻っていく。マークはそんな暮らしをしながら、ホームランをかっ飛ばすように何十万で絵を売る。
大切なことを学んだ。何より、表現者とは特別な場所にいるのではなく、君やぼくと同じような日常を過ごしていること。そのやりたいことをやるための環境は自分でつくるということ。アーティストとは誰に頼まれることもなく表現し続ける姿勢のこと。明日の保証なんてないこと。自然もまた生活の一部だということ。

ぼくはあのときに思い描いた生活をしている。つまり、やりたいことをやるために、できるだけライフコストを低くして、収入が少なくても不安にならないで、ほかと比較しないようにして(自分で望んだ楽しい人生なのだから)、作れるものは自分でつくる。そして、とにかく表現する。

昨晩はペットボトルの筏を修理して、手作りの竿も整備して、波の予報もチェックして22時に寝た。今朝は5時に起きた。うっすら雨が降っていたけど、海へクルマを走らせて、波はまだなかったから、ペットボトルの筏で海へ出て、竿を垂らして獲物を待った。向こうから漁師の船がやってきて「兄ちゃん、なんだそれ」「筏です」「そりゃいいな。頑張れよー」と海のうえで会話して、自然が生活の一部になっていると思えた。テトラのうえからは釣り人が笑っている。魚を待つのではなく、いるところにこっちから行って魚を獲る。これなら間違いない。ぼくはそう思ってテトラの釣り人を心のなかで笑った。

ところが釣れなかった。正確にはフグが二匹。最後は謎の魚に引っ張られて糸が切れて終了した。実際のところは根掛かりかもしれない。フグはリリースするから、結果収穫なし。悔しい。(このやり方で去年はかなり釣れた)

場所を移動してサーフィンをした。朝はなかった波があった。断わっておくけれどぼくは上手くない。それでも少しずつ上達している。それが何かをすることの喜びだと思う。比較する必要はない。それで止めてしまうくらいなら。自分自身と向き合うことがスポーツの楽しみだ。次はこうしたらどうだろう、とか、どうしてできなかったのかとか、集中しているときに考えることが楽しい。例えば、波のタイミングが分かってきて立てるようになったときや、例えば、波に乗るとき、引退した社長さんの話を想い出したり。

「開拓者にはならないんだ。一番より二番手がいい。最初の波に乗るより二番目の方がどうやったらいいか分かる。失敗が少ないんだ」という言葉。ほんとうだろうか。

昨日は波に乗らなった。その代わりに海藻を拾って、それを持って帰って、火を熾して煮て、その根に近いところは細かく微塵切りにして、庭で採れたキュウリと自生しているミョウガを刻んで混ぜたら、とても美味しかった。拾った海藻でも収穫があると一日の充実感が違う。だからと言って、魚が獲れた、獲れなかった、何匹だなんて、くれぐれもカウントしない方がいい。数えるということはゼロの豊かさを殺すことになる。食べ物が身の回りにあること、それに感謝するぐらいがいい。

3年前に植えた桃の実は、少しづつ大きくなってきた。5つ実って、3つ落ちて、あと2つ。今年はついに食べれるのだろうか。期待するとかえって手に入らなかったりする。だから、やっぱり数えたり期待しない方がいい。

生きる つくる 働く(仮)
次に出す本をここに書いてる。公開しながら。理路整然と並べるより、今日という一日を軸に言葉を巡らせれば、過去も未来もカテゴリーも横断できる。おまけにライブ感あって文章が生きてくるように思う。実験中。