いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

原始時代から現在へ、今いる場所から世界へと自由自在に横断して編集するライフスタイルのつくり方。

三重県志摩市の海の町、安乗に滞在している。目的は海の作品をつくるため。そのために生活の拠点を移した。ぼくは絵を描くために旅をしている。あちこちの暮らしと日本の自然を体験するために。それを可能にしたのが、空き家暮らしだ。ぼくら夫婦は、漂白民になり、定住する必要がなくなった。

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長い人類の歴史を俯瞰してみれば、社会がよりも、自然のなかで人間が生きてきた期間の方が長い。ぼくたちは、自然と社会の間のバランスを選びカスタマイズすることができる。

今回の旅に持ってきた本のなかから、「日本の歴史を読み直す」網野善彦著を紹介したい。

この本は、日本の歴史が取りこぼしてきた様々なライフスタイルを描いている。百姓=農民ではなく、様々な手に仕事を持つ人々であることを明らかにし、農民中心に描かれてきたのは米を税として徴収し、その石高が管理者にとって重要だったことに由来し、実は、海や川や湖に交通の便が発達していつて、そこには、これまでの日本史が描いてこなかったライフスタイルがあることを明らかにしている。
ぼくの父は漁師の生まれで、子供ながらにどうして日本が農民中心の国なのか疑問だったと話していた。
しかし、生活の中心にあった舟は、発達した陸上の交通に取って代わられ、いよいよ消えてしまい、日本人が、水の文化圏に属する民族だという事実が、見えなくなっている。カヌーを自作して、舟と共に暮らして、その事実を体感してみたい。

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昨日、波止場で釣り糸を垂れてみると、30分ほどで2匹も魚が釣れた。初めて自分で魚を釣った。もし、これが大地なら自分で食物を育てなければ食物は手に入らないと思っていたが、山にも恵みはある。山菜やキノコは、自然が与えてくれる食べ物の類いだ。人間は自然の恩恵を享けて生きてきたのだから絶対にお金に生かされているのではない。

ぼく自身、現代社会に追従して生きていく気はまったくない。できる限り、社会の枠の外に生活を成り立たせたい。なぜなら、社会が要求する経済成長は、環境破壊、人間の奴隷化に繋がるからだ。支配層が被支配層から搾取する原始的な社会のどこに魅力があるのだろうか。多くのひとは、そうしなければならない、という無意識の強制力に従っている共同幻想があるだけだ。

ぼくが仕事として選択した絵を描くことは、想像を資本に創造し価値を生み出す。それを芸術と定義している。その価値を生み出すために、ぼくら夫婦は、いま海に暮らしている。遊んでいるようで、命を賭けて生活芸術の実験をしている。

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その実験のやり方はこうだ。極度に発達した情報化社会から、歴史を俯瞰して、さまざまなライフスタイルを選択する。日本史から世界へ、原始から現在へと自由自在に横断できる。
ぼくはスペインとザンビアで体験したライフスタイルを、日本で試みている。

簡単に言えば、もっと多種多様な生き方が実践可能だし、お金のためにすべての時間を売り渡し奴隷になる必要はない。日本の社会環境であれば、もっともっと冒険しても死ぬことはない。大人たちが冒険して失敗と成功を重ねて、未来をつくる子供たちにバトンを渡すべきだと、ぼくはいつも、そう想っている。