いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

吹き荒れる風に舞い上がらないように自分の言葉で踏み締め歩く。

雨だ。朝。雨が降ると制作に集中できる。山に住んでいるから、雨がよく見える。東京に住んでいるときは嫌だった。濡れるし歩きにくいし。今日の雨は強い。作業場の屋根はトタンだから激しく鳴っている。

仕事は彫刻。集落の景観をつくる伐採のときみつけた木。アカガシ。なんとなくこれいいな、と感じた。抱き合う人のカタチを彫っている。それが見えた。ノミで削っていく。習った訳ではない。家を直したりでノミを使うようになって、一応自分で研ぐようになって、なんとなくできる。大工の学校では一年生のときはひたすらノミを研ぐらしい。それに比べてぼくの仕事は適当だ。

専門に彫刻をしているわけじゃない。材料があるからやる。それから「上手い」ということを疑っている。技術を先に身に付けて、それからやるって選択肢もある。というかほとんどそうするだろう。バンド仲間がドラムが分からないからノリが出ない。勉強しなきゃ、と言っていた。

雨が更に強くなってきた。ぼくはやりながら技術を身につけたい派。そんな派があるのか。ないにしても、やりながら成長すれば成功はずっと先。それも楽しいじゃないか。暴風雨だな。今日は。

彫刻はひき算だ。引き過ぎると失敗する。だから少しずつカタチを削り出していく。やっていればそのうち技術は身につく。それは絶対だ。しかも習わなければ、独学すれば、それ自体がオリジナルになる。間違いも含めたオリジナルは作品の強度を高める。技術の競争とは異なる領域で高みを目指す。違う、それは高さではない。それは道だ。

自分でこうやって言葉を紡いで道を切り拓く。それほど注目が集まっているわけでもないし、売れている実感もない。だから自分を応援する。常に社会から測られる価値のサイズがあって、やっぱりお金をたくさん持っていたり、たくさんの支持がある、数字を持つことは、この社会では優位にある。それを目指せ、と社会は強い風のように吹き荒れる。

自分を納得させる言葉。振り回されない環境。それを自分で創出する技術。それが生きるための技術だ。それらがシェルターのように機能して、ぼくは自分の仕事に向き合うことができる。吹き荒れる風に舞い上がらないように自分の道をしっかり踏みしめる足で歩く。だから遅い。

映画「ホピの予言」を観た。昨日。85年に公開されて、時々名前を見かけていたけど見る機会がなかった。再発したDVDを購入した。

ホピはふたつの道を予言していた。ひとつは物質文明の道。もうひとつは大地の道。物質文明の道はホピが暮らす大地からウラニウムを取り出し原爆をつくり広島長崎に落とした。その道はいまもこの社会に続いている。日本には原発がたくさんある。爆発もした。ぼくたちはその悲劇を知っている。もうひとつ大地の道とは、大地と共に生きる。種を蒔き食べ物を手に入れる。むかしながら人間がしてきたこと。

雨を恵みと思えるか、厄介に感じるか。生活が大地と繋がっているか、いないか。

ホピとは平和な人々を意味する。

ほんとうのホピは質素でスピリチュアルないのちの道を...生き残るであろうただひとつのいのちの道を...真に探し求める人たちひとりひとりの頭と心に届くように働きかけ、伝えていくことで、いかに世界のすべての子どもたちに、ほんとうのいのちの道の手本をみせるかを知っている。

ほんとうのホピは、ここに、ホピのチカラこそが世界に変化をもたらす言動力であることを、宣言するものである。