いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

今していることがすべて

引越しのために本を整理しながらページを捲った。何度か読んだもの、目を通しただけのもの、買ったけれど読んでないもの、いろいろある。7年前に旅に出るために大量の本を処分して、一旦は3冊だけになった。それからまた増えて本が集まっている。

本は読むために買う。「欲しい」という感情が働くからモノを買う。この「欲しい」という感情に注目している。その感情に生かされているから。自分が欲しいモノを買う。誰かが欲しいモノを売る。この売買によって人はモノを交換し、貨幣を介して経済活動をする。

 

ぼくは妻と二人で芸術家を名乗り、作品を製作し、展示して、販売して生計を立てている。その意味で、一次産業だと思っている。野菜を作って売ることや魚を捕って売ることに共感している。

野菜や魚と違うのは「作品」と呼ばれるモノは作られた品で、こうでなければならないという定式はない。なんであれ「欲しい」という感情を働かせることができれば、それは価値を持って貨幣と交換することができる。だから売れるモノを作ればそれでいいとも思う。けれども、それでは納得できない自分がいるのと、売れるモノを作ろうとしても売れないこともあるから、売るためだけにモノを作ることに真っ直ぐ突き進む気にもなれない。

その煮え切らない態度のおかげで、売るという目的とは別の道を探究する哲学が生まれる。「道」とは、自分が選んで開拓する行き先のことで、哲学というのは、その道について思考することで、道について思考することが自分の人生にも反映され、その道を照らす地図を描き出している。

もっとシンプルに伝えることができるのなら、何のために作品をつくっているのか、そのことを作品に語らせたい。作品が語れるようになるために自分を駆使する。今はその過程にいて、検討しながら地図を書いては消して、迷いながら生きている。きっと野菜を育てるにしても、魚を捕るにしても、それぞれの創意工夫があるのだと思う。

だから本を読む。集まっている本は、自分の関心興味の集合体でもある。

 

そんな手元に集まってきた本のページをめくりながら、ああ、こんなことをしたかったんだな、と再確認した。それは文章を書いて、レイアウトデザインして本として綴じることや、彫刻としてオブジェをつくること、日常の景色を絵に変換すること、絵画、彫刻、本、この3点が、やりたいことだった、そう再確認できた。ぼくは学校に通って技術を習得してきた訳じゃないから、日々の生活の中から、それらの道を開拓していく技術を見出すようになった。家を直すことは、木工の技術であり、それは額づくりや彫刻へと通じている。

畑をやって土を触ることや、最近やった炭窯づくりは土を素材にするためのエクササイズになっている。景観をつくることは、自分の身の回りの景色を観察することになる。それはやがて絵に仕立てあげられる。

 

そうやって、自分でも捉えきれない規模で、それぞれの表現を追求していくと、それぞれの道が繋がったり、また離れたりして見える世界が変わっていく。過程では道に迷うようなこともある。それでも、よりよいモノをつくりたい、という欲求が軸になって人生を動かしている。その「よりよいモノ」とは何かと言えば、よりよい生活から生まれる、と信じている。これは、自分で編み出した信仰でもある。

それは、作品がどうやって出来上がっているのか、どんな素材をどうやって手に入れ、その素材はやがてどうなるのか。

ゴーギャンの「われわれはどこからやってきて、どこへいくのか」という作品タイトルに対して作品で答える試みでもある。作品は生活に一致する。

 

休耕田の湧水が、池になって、そこに蓮を植えて、そこに鴨がやって来るようになった。畦には菖蒲を植えて、土手には桜の木を植える。

この小さな景観、自然が織り成す環境のなかに作品の種がある。池、蓮、桜、花、鴨、ぼくら夫婦は、それらをあらゆるやり方を検討しながら作品としてカタチにしていく。

ぼくたちは夫婦で作品をつくるから、そんなに多くは作れないかもしれない。けれども、妻と二人、夫婦になったからチカラを合わせてこの人生を進んでいく。ひとりでは、大きなチカラを持っていなくても、小さなチカラを掛け合わせることで、想像も及ばなかったような表現ができるようになる。これが夫婦という社会の最小単位だからこそ可能になるある種の奇跡だ。

 

ぼくたちのしていることが、これから何かしようとしている人のヒントになればいいと思う。

そして少しずつ書き貯めている文章はやがて本になる。この循環が季節のように巡りぼくは生きていく。それができるまで道は続く。ゴールは完成じゃない。ゴールに向かっているこの瞬間、ここにこそ人生がある。過去にも未来にも遠くにもない。今ここにすべてがある。