いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

書く=自分の声を聞く技術

何か抜けの悪い感じがしていた。空がどんよりする気分。ぼくはそんなに落ち込むことはない。まあ、落ち込んでいるわけでもなく、気分が晴れない、そんな日もあるだろう。もしかしたら強い風のせいかも。だから文章を書くことにした。日記ではなく。

驚くほどシンプルに雲が晴れた。日記を書くこととは別に文章を書く必要があった。重要な発見をした。日記を書いたのは、事実を知りたかったから。自分が何をしているのか。あとやり方を変えたい気持ちもあった。もっと伝わりやすい文章があるのではないか、と。

考えていたのは、自分について書かないこと。事実のみを書く。考えや感想を書かない。しかしそんなことはできるはずもなく、なんとなく我慢している日記が続いた。ふとSNSで「自分の声を書く」という本の投稿が目に入った。

ぼくが文章を書くのは、伝えるためでも売れるためでもなかった。その原点を忘れていた。目的は自分との対話だ。そのために書いている。

作品をつくることも同じだ。そもそもこの行為に自己判断が入り込む余地はないと考えている。作品は状況が生み出すものだから。バンドのために制作したMVがイマイチだとメンバーに言われた。分かるんだけど浅い、と。「どうしてそれを忘れて」という歌詞に対して、仕上がったMVは都市vs自然という映像だった。それがモヤモヤするという。

個人的な制作物だったら、手直しはしない。そのまま放つ。しかし今回はバンドの作品だ。「どうしてそれを忘れて」のイメージを修正することにした。が、その作業がどうにも捗らない。たぶんやれると思うのだけど、それが良いモノに仕上がるか分からない。そもそも良いモノにしようと狙う時点で手遅れではある。

柳宗悦の民藝を引用しよう。職人が大量に生産する器、その手仕事は繰り返す作業のなかで欲が消えていく。夥しい数の技のひとつひとつに狙いがない無垢の表現が生まれる。柳宗悦は、そんな素朴な陶器や造形を評価した。

まあしかし、ぼくがそれで良くても仲間が違うと言うなら応えたい。バンドをやり続けてきたことは、違いを乗り越えて協働する基礎体力になっている。BANDとは束ねる、という意味だ。人と人がチカラを合わせて何か行為する。バンドの経験のおかげで妻と芸術家をやっている。もしくは地域の先輩たちと炭焼きをやっている。最近では北茨城市で出会った仲間たちとフリーペーパーも刊行した。

ぼくの手元から現れたモノが仲間たちに受け入れられないとき、ぼくは素直に言う。このカタチを世に出したい。だからボツにするとかではなく、どうしたら良くなるか教えて欲しい。

イメージしたモノがカタチになって表れるとき、それが歪でも不完全でも、そこには何かがある。だからカタチとして表れた。それを両手で掬いあげることがモノをつくることだ。自分の心も同じだ。こうしなければならない、とか、良くしようではなく、そもそものはじめから、ぼくたちはすべてを持って生まれている。ブレーキを踏むのではなく、アクセルを全開にすればいい。