いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日々記2021.12.30

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2021年の終わりが近づいてきた。年の瀬。ひと足早く妻の実家、長野県岡谷市に帰省している。ぼくは47歳で妻の両親は70代で、お義父さんが今年倒れて死ぬところだった。入退院と手術を繰り返して、日常生活を支障なく送れるところまで回復した。

歩ける。見える。聞こえる。会話ができる。好きなものを食べることができる。排泄できる。不自由なく奇跡的に生きている妻のお義父さんが曾祖父100回忌の法事で挨拶をした。
「わたしは死にかけましたが死にませんでした。生きる理由があるようです。それは、わたしの周りにいてくれる人たちに感謝を返すためなのだと気づきました」

お経を唱えたお坊さんの法話はこうだった。
「生きていて大切なこと。それは何だと思いますか。それは今なのです。過去のことを思い悩むことは悪いことなのです。反省して今に生かせばそれでいいのです。くよくよすることは今を犠牲にしているのです。未来のことをいくら考えても、それはまだ来ていないのです。ですから今この瞬間を大切にしてください。わたしであれば、今皆さんに話をする、このことが大切なのです」

年明けからは北海道・札幌で滞在制作を予定している。毎回、滞在制作は環境や状況とのセッションだから何が起きるのか分からない。この時期の北海道の雪はピークを迎えているはずだ。敢えてこの時期を選んだのだけれど成果を期待すれば不安にもなる。

こう考えてみよう。その場所でそのときにやれることをその場にいる人たちのためにやれば、それ以上何を期待する必要があるのか。そうすれば何かをカタチにすることができる、きっと。そう信じてみる。

未来に対しては「きっと」という小さな期待を込める程度に留めて、残りを今に集中すればうまくいく。未知とのセッションの機会を与えてくれた依頼主の期待に応えたい。いや、その想いは既に未来だから軽くしておきたい。

お義父さんが、葛飾北斎のテレビ番組を予約しておいてくれた。北斎がヒットを飛ばしたのは72歳のとき、富嶽三十六景だった。歴史に名を残す傑作「神奈川沖浪裏」はそのときに誕生した。つまり北斎はその年齢まで自分の絵を探求し続けた。

岡谷市に来る途中、東京・立川市で開催している柚木弥沙郎の作品展をみてきた。なんと99歳現役で制作している。

「みんなぼくのむかしの作品を展示したがるけど、今のモノが一番だからそれをみて欲しい」というインタビュー記事での弥沙郎さんのコトバを思い出す展示だった。

うまくいっている。うまくいかなかった。もっとできるはずだった。こうやって自分を評価する気持ちが働くことがある。そんな気持ちのとき、一体何を基準に何を評価しているのだろうか。

今年の最後。染色を習った。きっかけは北茨城市に暮らす染色家の佐川さんに取材したときだった。民藝・柳宗悦をはじめ芹沢圭介、柚木弥沙郎らの作品に影響を受けているから、染色をやってみたかった。そんな気持ちを汲んでくれたのか、2日間に渡って型染めを講習してくれた。

型染めは紙を切ってカタチをつくる。だからコラージュと近いところがある。線を書くのではなくハサミを使う。紙を切るという共通点がある。
カタチを捉えるとき、その瞬間の閃きみたいなモノも同時に切り取りたい。スケッチやデッサンのように完成されたカタチをトレースするのではなく、失敗なのかもしれないし成功しているのかもしれない、未だどちらでもないカタチを取り出したい。優劣を消滅させたい。


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No expectation(期待しない)をモットーにしている。期待とは、今ここにない物事に想いを乗せてしまうこと。坐禅を習ったときに教えてもらい、大切にしている技だ。

けれどもこれだけは抵抗できない。20年以上続いているバンド活動が来年は開花しそうで期待が膨らんでいる。楽しみだ。ベースの宮下くんがコロナ禍で仕事やプライベートで煮詰まって、その捌け口として作曲に取り組んだデモが溜まって、排泄するように次から次へと曲を生み出した。奇跡が起きた。しかし世界中の99・9999%の人たちにはどうでもいい出来事。無名の人のデモ音源。けれどもバンドにとって唯一無二の楽曲。ぼくには宝物にしか思えなかった。他の人はどうあれ、自分にとって価値あるものをみつけるチカラが今をつくる。

未知の可能性に心が騒いだ。コトバが湧いてきた。歌詞を入れた。はじめて詩を書いたのは10代の終わりで、このバンドのために詩を20年以上も書いてきたことになる。駄作だろうと何だろうと、ぼくは詩を書いてきた。ぼくは何に期待してバンドを続けているのだろう。

バンド活動の多くは、メジャーデビューするとか、ライブハウスを満員にするほどの人気者になるとか、仕事にできるとか、そういうボーダーラインがあって、脱落すると解散したり音楽活動そのものを辞めたりする。

けれども我らバンドは、脱落しているにも関わらず誰も止めなかった。ボーダーラインよりも大切な想いがある。ぼくらには死んでしまったメンバーがいる。20年前のこと。彼が27歳のとき。メンバー全員の親友でもある彼が死んだときゼロ歳の息子がいた。息子は16歳になってバンドのメンバーとしてギターを弾いて、今も参加している。

曲があって、演奏する仲間がいる。ここにしかない個性がある。バンド活動するだけの材料が揃っている。

生み出されようとするカタチを現実にすることが「表現」だ。中学生のときから音楽を表現したくてやってきた。長い間、できていないと考えていた。けれどカタチにした時点でそれを達成していたのだ。それを楽しむことよりも、評価されたい欲望が勝っていた。そんなことで自分を殺すなんて、それほど無駄なことはない。基準も分からない評価に落胆して、そこに生まれてくるカタチを殺したくない。自分で表現に物足りなさを感じたとき、それは成長するチャンスで望んだモノをカタチにすればいい。自分を楽しませてモノづくりをすれば、そのモノはきっと誰かを楽しませてくれる。

新曲・歌詞
生まれ生まれ
死に死んで
何もない
考えない
Yes,Yes
Death Alright