流れがある。時間が流れている。運が流れている。風が流れている。命が流れている。
週末に友人の父の本棚の整理に仙台に行った。友人の父は5年前に亡くなって、本棚はそのままになっていた。いつか整理しなきゃという友人の誘いで週末訪ねて迎えられたそのラインナップに驚いた。まさにいま欲しいミシェル・フーコーの「真理の勇気」はないものの、フーコーのいくつかの本があった。知の考古学、言葉と物、監獄の歴史、ドゥルーズのミシェル・フーコー、パウル・クレーの日記、ジャコメッティのエクリ。それ以外にも。
本棚は故人の思想を映していた。友人の父に生前会ったことはない。けれども30年近い友人の父が遺した本の一部は、ぼくが読むべき本が埋もれていた。一体、この不思議。故人と言葉は交わすことはもうできない。けれども本のひとつひとつが語りかけてくる。友の父が見ようとした景色が。ぼくが見ようとしている先とも重なる景色が。
一致することがある。予定が合うとか、意見が合うとか、行き先が合う、目標が同じ、会社が一緒、趣味が同じ。重なるところに何かが積み重なる。
この友はバンドのメンバーでドラムを叩く。ぼくの父はドラマーだった。遠近感もパースも合ってないけれど、時空を超えた一致がここにある。友の父の蔵書とぼくの思考。ぼくの父はドラマー、友達もドラマー。
そんな友とは、メンタルとフィジカルについて話した。メンタルをボディと呼びフィジカルを理屈と言い換えた。
ボディがなければ中身がない。中身がないからボディで勝負する。理屈ばかりでボディがなければ何もしてないに等しい。行動することがボディ。考えることが理屈。いろんな言い回しができた。
友が案内してくれた仙台のお寺は修験者がいて、その達成者の映像が流れていた。
「限界は超えるものではない。超えてしまうと死んでしまう。だから超えるのではなく限界を押し上げる。少しずつ。そのために修行をする」と話していた。これを友に伝えると、なるほど、と答えながらも、修験者はいいことを言い過ぎてて、聞いてられないというか、あまりに当たり前過ぎて取り入れられない、と言った。
ここ最近の課題は、伝えること。作品をどう伝えていくのか。その手段について。これまで本を4冊出して、伝わっているという実感と、伝わらないというもどかしさの両方がある。伝わっているという手ごたえは、ゆっくりとずいぶんと遅れて現れる。一方で伝わらなさはすぐに分かる。だから物語が必要なのではないかと考えている。即効性として。
つまりボディの実践について語ってみせてもボディをしたくない人は聞いてられないのだと思う。友の修験者へのコメントがまさにそれ。修行なんかしたくない。それはそれだからそれでいいのだけれど、社会を変えたいとか人間の生き方を変えたいと願う自分としてはそれでは困る。というか、作品から期待した効果が生まれていない、ということになる。変わってもらわないと機能してないことになる。だからボディと理屈の中間地点に物語を立ててみたい。
ぼくは芸術家として暮らしている。画家でも彫刻家でもない表現者として。生きる人間の姿を表現している。ぼくも、ぼくの父も、友も、友の父も、みんなが生きる人間である。その全員、恐らくすべての人間が間違っている。ぼくも間違っている。だから表現したい。間違いを正した姿を。それでも間違っている。だからまた表現する。
ぼくの表現は素材と技術から発する。はじめにコラージュがあった。コラージュとは異なる素材を組み合わせて予想外のイメージを作り出す技術だ。
だから、間違いを正した姿をコラージュによって抽出しようとしている。それはぼくがイメージするのではなく、素材と技術が化学のようにケミストリーを起こしたときに現れる。その素材と技術は過去から採取される。技術以前の未だカタチになる前、伝承される前の拙い素朴な技。それを現代に呼び覚ましたときに現れるモノゴト。太古に遡り、人間行為を問う。
行為と表現、表現者と鑑賞者の何が重なるのか。ぼくも、ぼくの父も、友も、友の父も、それぞれが違っていて、それでもある点に於いて一致した。だから人は出会う。としても、それは途方もない大きさで俯瞰したときの一致でしかない。異なるものが同じ点に重なって流れていけるのは、運命と物語の成せる技なのだと思う。だから物語というもの開いてみたい。