いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

アート作品は見られて成長する。

ぼくは妻と二人で芸術家を仕事にしている。一緒にひとつの作品をつくる。いまギャラリーで個展をしている。展示をする目的のひとつは作品を売ること。もうひとつは作品を鑑賞してもらうこと。たまに「作品を買えなくてごめんなさい」と言ってくれる人がいる。けれども作品は見てもらうことで成長する。それを知っててほしい。だからすぐに売れなくても、作品は、数多くの目に触れることで強くなっていく。美しくなっていく。余計なことを言わずにそっと静かにしていられるようになる。つまり自立する。

今回の展示でもいろいろな言葉を貰った。

「初めて見るマルチエールですね」

マルチエールとは、絵肌のことだ。ぼくたち夫婦の作品は、コラージュから始まった。紙を切って貼って剥がしたり、貼る予定の紙の裏側を貼ったり、絵を予想外の方向に壊しながら絵をつくっていく。

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原風景 | 生きるための芸術

2017

上記の作品はまさにコラージュ作品で、ここから数年の時を経て、下記の絵画へと変わった。これは最新形。丸いパネルと額をつくれるようになったのは新しい技術。

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河口の夕焼け | 生きるための芸術

大きな変化は、絵の世界が空想ではなく現実になった。ここは茨城県北茨城市の通称「河口」と呼ばれる場所。紙を切って貼るコラージュではなく、絵の具をコラージュのように塗っている。だからここにはコラージュの痕跡がある。

ひとつの作品のなかに、自分たちが重ねてきた表現が地層のように重なっている。人生のように。そこには、最も古い表現の核をみることもできる。だから、たまに昔の作品を眺めるのも悪くない。それは自分が何者なのかを教えてくれる。

 

ギャラリーで鑑賞者と対話することは作品と話をすることだ。まるで鏡を覗き込むように。


「次はどんなことをしたいのですか?」と質問された。

「紙をつくりたいんです。身の回りに楮(こうぞ)があって、それを使ってやってみようかと思うんです。」

「紙は難しそうですね。道具とかも必要ですし」

「どんな技術も難しいです。でも始まりは単純だったんだと思うんです。その始まりまで遡って技術を獲得することがぼくの目的なんです」

そんな話をした。

 

ぼくのテーマは生きるための芸術で、それは生きるための技術であり、人間が生きるためにしてきたことの源流を探求する冒険でもある。この冒険にはカテゴリーがない。芸術の源流を探索しているから芸術と呼んでいるけれど、それをカタチにするまで、理解は得られない。「紙をつくる」ためにまずは楮をみつける。説明するのが難しい。絵を描くわけでもないし、オブジェでもないし、すぐにはお金にもならないだろう。けれども炭窯で土器をつくることに成功した。それと同じ何かを感じている。言葉未満のとき「感じる」と言うしかない。

 

遊んでいるのかもしれない。それでもぼくは十分に大人だし、やることはやる必要がある。その柱ができつつあるような気がしている。絵を描くこと。実は絵を描くのは妻チフミがやっている。続けていくうちに彼女の性格が絵に反映されて、独自のマルチエールを獲得していた。チフミはぼくのように能天気でも自信家でもない。だから絵に自分の筆跡が入るのを極端に嫌がっていた。笑えるほどの逆説だけれど、妻が自分を消した結果、ありえないほどのオリジナリティがそこに現れた。

こうして俯瞰して考えられるのも、作品を並べて多くの人に鑑賞してもらったからだ。作品が売れることも必要だけれど、展示をして鑑賞してもらい、言葉を重ねてもらうことで、ぼくは作品がどういう状態になっているのかを客観的に知ることができる。その視点は展示する以外に知る手段はない。

 

「窓の外から景色を見ている」

そう言ってくれた人がいた。

絵はもうひとつの世界だと思っている。ぼくたちが生きている現実と絵画の世界を分け隔てるのが額だ。額は文章の「。」と同じ。英語でのピリオド。はっきりと世界を切り分けてくれる。だから額は窓だ。

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道 | 生きるための芸術


2021年9月の頭はまだ緊急事態宣言が出ていて、県を跨ぐ移動は自粛が要請されている。ぼくたちも、展示に毎日立ち会うか悩んだけれど、結局、ギャラリーでお客さんと話をすることを選んだ。なぜなら、それはぼくたちの仕事だから。表現を伝えること。ここに人生を賭けて取り組んできた大切なことがある。それは行動して感じ取ることと言葉の間に横たわっている。