いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

枯れる花の美しさ

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世界に出会い、世界を知り、世界について述べることは、つねに一定の形式にそって生きること、なんらかのスタイルに従って生きることを意味する。世界を知るには、世界のどの段階、どの水準で、どのような形式をもとに世界を眺めようとするのか、その世界を生きようとするのかを選択しなければならない。

植物の生の哲学 エマヌエーレ・コッチャ

 

自分が見ている世界を生きている。それは現実に見ている目の前から、インターネットで遭遇する情報も含めて、それら全体のなかに生きている。だから、何を経験して何を見るのかは、それぞれの人生を構成する大切な要素になっていく。

「生きるための芸術」、「生活芸術」というコンセプトを作って活動してきた。けれど、多くの場合難しくて理解できない、と質問される。ぼくは答える。ひとりひとりが日々選択することで、その人生を作っていること。それ自体がアートであり、形式的な芸術を超える壮大なクリエイティブであり社会活動だと。

アートや芸術には、はじめから鑑賞者と作品を隔てる見えない境界線がある。作品が放つメッセージは鑑賞者へダイレクトにはインストールされない。ぼくの表現は、作品を鑑賞して美しいとか、技巧的なことに感嘆するためのものではなく、鑑賞者自身のライフスタイルへと影響を与えることを目指している。

今日、新たな発見があった。コスモスの種を収穫したこときのことだった。秋に咲いたコスモスの花は冬を迎え枯れて、大地を一面、茶色に染めて寂しさを演出していた。だから取材に来てくれた人がコスモスの畑で撮影したいとわざわざ足を運んでくれたとき、写真映えしませんね、と別の場所での撮影を勧めてしまった。

けれども今日、コスモスの種を採りながら、茎の先端にあった花がそのまま種になって、それこそ花のように満開で佇む姿に見入ってしまった。それには色もないし、華やかさもないけれど、確かに花の姿をしていた。見た目は枯れているけれど、それはすべて種だった。ここに次世代のコスモスを秘めている。表面には現れない奥に宿している命のはじまり。

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ぼくは、この景色を新たに感じ直した。たぶんこれが侘び寂びに通じるのではないだろうか。儚いけれど、色もないけれど、ここにある美しさ。

種を蒔き、花を咲かせ、種を採り、また花を咲かせる。大地のうえ、春夏秋冬というサイクルのなか、ぼくは植物のリズムを知った。