いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

コントロールから出る、アウトオブステップの試論

小狐が死んでいた。道で。小さな身体が横たわっていた。中身は無くなっていた。身体はあるのに中身がない。身体の中にあるものを人間は命と呼んでいる。魂とか生命とか。それは何だろうか。

「生きる」ことを掴まえるために活動している。それはゲリラ活動みたいなことだ。社会ではおよそ評価の対象にならない活動。研究と呼ぶにはどこにも所属していないし、あまりにも当たり前な生活に属している。

生まれて周りを見渡せるようになれば、すでにぼくたちは社会という枠に囚われている。父と母、家族、学校、会社、地域。社会がそれ自身を成立させるために壁を張り巡らせる。どこまで行っても壁に囲まれている。

「生きる」という現象は、社会のなかにほとんど取り込まれて、その魂みたいなところを失っている。気絶している。どうしたら目を覚ますのか。

覚えているのは保育園の休み時間。柵の外に同じ年頃の子供がいてこちらを見ていた。「何をしているの?」と話しかけると「俺は保育園に行かない。だから何処にでも行ける」言葉は違っているかもしれないが、彼はそんなこと言った。

小学生のとき遊んでいて踏み切りを越えて向こう側へ行こうとすると「踏み切りを越えてはいけないと言われているから帰る」という友達がいた。彼はほんとうに帰ってしまった。ぼくたちは何かに囲われている。約束事が引くボーダーライン。

踏み外しはいけないボーダーラインがある。テストで低い点数を取るとか、駆けっこでビリになるとか。競争に敗れた人間はどこへ行くのか。居場所がないのだろうか? 想像してみよう。

例えば10人が同じ部屋にいて、その10人にそれぞれ違う椅子を与える。椅子は10段階に順位づけされ、優れている者には優れた椅子が用意されている。これは比喩だ。現実には同じ椅子が用意されているように社会は取り繕うけれど、このシステムが目指すところは優劣をつけること。しかし何のためにそこまでして強烈に優劣をつけるのか。試験やテストは何のため?

社会はシステムに制御されている。競争システム。勝ち負けシステム。一度にスタートする競争はもう終わりにしたい。これがぼくの願い。ヨーイドンの掛け声を聞いたら反対側へ歩いていこう。ビリの向こう側へ。誰も足を踏み入れたがらない場所へ。

ぼくは高校生のとき、教室をライブハウスにした。文化祭という名目で。日常のなか教室でバンドなんかやったら事件だけれど、文化祭なら話は別だ。先生に相談して計画を練って。ルールに従って教室をライブハウスにした。頭をモヒカン刈りにして学校に行った。先生は「なんだ!その頭は?!」とぼくを睨んだ。「先生これは文化祭のパフォーマンスです」笑って返答した。文化祭=祝祭は、日常を書き換える許可証になる。

その文化祭の期間、教室は学生たちの一時的な解放区になった。ぼくはルールを変えること、場所をつくるということを衝動的に表現した。つまらない学校、窮屈な教室が遊び場所に変わった。

当たり前に見えているもの、役割が与えられているもの。ぼくたちの日常はそういうものに溢れている。そういうものでしかないという諦めに似た限界を感じている。しかし、その日常は変えることができる。見え方を変える魔法。

眼差しが変われば景色も変わる。人類の長い歴史のなか、たくさんの先輩たちがモノの見方や考え方を刻んできた。それが魔法、ぼくはそれらを「アート」と呼んでいる。

先輩たちは、いつの時代も当たり前のように誤ちを演じる世界に「抜け道」を切り開いてきた。それはエクソダス=脱出。退屈な世の中をエキサイティングに変えるメッセージを提示してきた。

アートとはギリシャ語でテクネー。その意味は技術。また「見えるようにする」という意味でもある。見えないものを見えるようにする。見えているつもりのもののもうひとつの姿を見えるようにする。

さっき「退屈」と書いた。それは何か。均質化、効率化。以下を切り捨てて人間をフラットにするシステム。劣る人間、効率が悪いんだったらやらない方がいいという呪い。お金にならないんだったらやらない方がいいという呪い。足が遅いなら走らない方がいい。そうやって世界はクソみたいに退屈になっていく。

いまは2022年。たぶん何千年もこうなのだと思う。先輩たちは抜け道を記述してきた。脱出のコードを。しかしそのコードは幻想だと片付けられる。それは空想のもの。アートという役に立たないものだよと教えられる。それは哲学という偉い人が学ぶものだよ、過去の偉人しか考えられないんだよ、と。それは宗教といって、神さましか考えられないことだから、疑うことなく信じるんだよ、と。君は何も考えなくていいよ。

そう教室をライブハウスにしてパンクの真似事をしたら、それを演じて楽しんだら、また日常に戻るんだよ。パンクなんてファッションなんだから。そうですね、先生。ノーフューチャーとかファックと叫ぶだけじゃ能もないし何も解決しないですね。そんな振る舞いもまた演じさせられている。何を? パンクを。パンクをトレースして満足しているに過ぎない。

用意された何かを演じて満足させられる。しかしすぐにその先に欲望を提供される。それが商品であり欲望の消費システム。

スローガンや標語、広告や数字に踊らされるな。そのためには思考を奪われないように目を閉じる。必要ないものを見ない。逆に必要なものは何か。生きるためのー。道具、技術、身体、言葉、記号、身ぶり、食料、家、水、生きるための快適さ。その快適さを競わないこと。競えば途端に飲み込まれる。優劣のシステムに。

反対と叫ぶのもノーと抵抗するのもエキサイティングで楽しい。けれども、反対しているものそのものを変えるような、見えていない側面に光を当てるようなやり方ができないだろうか。

表面上は参加したふりをして、別の目的を果たす。目的はいらない。今日から明日へ明日からまた次の日へと、生の喜びを繰り越していく。誰にも奪われないように。搾取されるものを形式上納めて、誰も興味を持たない喜びの利息を自分に返済して増幅させていく。肉を斬らせて骨を断つ。

安心していい。周りを見渡せば、必死で優れた椅子を奪い合っている、きっと。その隙に椅子の作り方を盗む。椅子は座れればいい。誰かが作った椅子に座っても何の表現も生まれない。誰かが作った椅子にクレームしても根本的な解決にはならない。

つまり表面的には皆と同じ振る舞いをしながら社会から自由を盗み取る、獲得する方法を模索する。脱獄映画のように用意周到に。

いま読んでる本を引用しておこう。

「当然のことながら、エキュメノポリス(世界全体を均質にするシステム)の編み目にほころびを生じさせる反乱であり、最小限の実質的な消費だけで暮らすライフスタイルの実験であり、人間に所有されえない野性の領域の維持を続ける活動、効率のよさのみに支配された工業・商業の惑星的な侵略的拡大に対する有効な否定になるだろう」

管啓次郎「土地 記憶 欲望」より

新しい眼差しが生まれつつある。それは書き方、文体。模索している途中。だからそれを続けていけば新しい本にまとまる。未だ言葉にしてなかったライン、領域、深層に線を引いてイメージを浮き彫りにする。

これを読みたい。

自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史 (講談社選書メチエ)