いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術日記2022.0518

朝起きて海に行った。どうにも海に行ってみないと分からない。これならできるな、という具合だったけれど、波の数が多くてゲッティングアウト(波の向こう側に出ること)ができない。一本は自分的に乗れたけれど、そのあとは体力を消耗するばかりだった。

午後は小水力発電の話を聞いた。いま暮らしている里山の水路を使って発電できるようにしたいと話があって、どう進めればいいのか、地域の人に少しずつ話しを聞いている。

地域資源を利用して発電することは素晴らしい。けれど、それは環境とか、地域活性という文脈にとっての話で、地域に暮らしているお年寄りにすれば、電気は来ているのだから、わざわざそんな面倒なことをしなくてもよい、という考え方があることも分かった。

どんな話にしても、自分が当然と考えていることは別の人にとっては当たり前のことではない。考え方は人によって大きく違う。それを前提としてイメージしておかないと、どうして思い通りにいかないのか、と憤るばかりになってしまう。だから、どうして小水力発電をやる必要があるのか、誰が聞いても納得できる理由を考えている。

思考は突き詰めれば解像度が高くなる。サーフィンで繋がった先輩のジンさんは、吐くまでイメージの解像度を上げると教えてくれた。ジンさんはそれで幾つもの事業を成功させている。

できるだけ自分自身を利用した方がいい。動かした方がいい。同じように身の回りの環境も利用した方がいい。余地があるなら。とても単純な話。分かりやすいのは災害の時だろうか。例えば、電気がなくなるようなとき。地域で発電していれば、電気の供給ができる。しかも、それが何の役にも立たない地方の里山だったら。つまりそこが一周まわって最先端になったとしたら。そこにヒントがあるように思う。