いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術日記2022.0520

昨日の朝、お茶摘みをして紅茶を作った。いま暮らしている里山にはあちこちにお茶の木があって、けれども誰もそのお茶には興味がない。その紅茶を飲みながらこれを書いている。

目の前に利用できるモノがあるのにその利用価値が分からない、もしくは面倒だからやらないとか、ほんとうにヤバい。何がヤバいって、この数年は大きなウネリが時代変革を起こしているように感じている。それは、誰かが誰かを動かして利益を得ようとする仕組みの崩壊のはじまりで。もちろん、これは個人的な妄想で、そんなことは起こっていない。全体的には。しかし社会とは、夥しい数の個人の集合体であって正解は存在しない。社会という巨大な単位の両極では、相反することが同時に存在している。つまり時代変革は起きているし起きていない。議論の必要もまったくない。

二項対立軸はひとりの人間の両手に収めることができる。目の前のものを利用するよりも便利なものを買ってきて済ませる資本主義的なライフスタイルを単に否定して茶摘みを肯定するやり方がパラダイムシフトしつつある。YesとNoに分類するのではなく、Yesを増やしていくやり方に。

摘んできたお茶で作った紅茶は、作った本人には薬草か、と思うほど効果ある美味しさだけど、人によっては美味しくないという。美味しさもまた、そういうものだと思う。

10人に理解されるより100人に理解された方がいいのか。それは結果であって、どちらでもいい。

読んでいる本に「インディアンがずっと旅してて30年も目的地に着かないことを白人が笑ったら、目的地に着くことよりもその道の途中にいることが旅だから、いつか目的地に着けばいいと言われた」ってエピソードがあって考えさせられた。

絵を描いていると、作品が何点できたとか、何個売れたみたいな話があって、たくさん作ってたくさん売れた話を聞くと羨ましくも思ったり焦ったりもするけど、落ち着くところは絵を描いている途中にある。仕上げた数でも売れた金額でもない。目的は表現を続けることで、なぜなら生きることが目的であって、それを維持するために作品を売っている。文章を書くのも同じこと。この人生を続けるためにぼくは表現を続けている。