いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ひとが争いを止めるために

戦争が起きている。ロシアがウクライナに侵攻した。その背景について両側から正義が論じられている。同じとき、ぼくは平和に暮らしている。同じときに争いに巻き込まれる人々がいる。どうしてひとは争いを止めることができないのか。

戦争に比べたら、ほんとうに些細なことだけれど、ぼくにとって受験も戦争だった。中学生のころから優劣に分けられ、もっと言えば学校生活自体が戦争だった。もちろんいま起きている戦争とは違うかもしれない。でも争いの種は人間の心のなかにある。

ぼくは小学生のとき、いじめに遭った。今からは想像もできないだろうけれど、たくさんの暴力を受けた。辛くてそのひとりを殴り返そうと家の前まで行ったことがある。勇気がなくて引き返したけれど。

はじめて就職した会社でいじめがあった。不器用な女の子がいて、失敗するたびに笑われて、それが嘲笑に代わって、次第に怒りになり、その女の子は何をやっても失敗するようになってしまった。そして会社に来れなくなった。できるだけ話しかけたりするようにしていたけれど、彼女にとってはぼくもその会社側の嫌な奴だっただろう。

交通事故で病院に入院したとき、同じ部屋に指が六本ある吉田さんという人がいた。そのひとは病院と刑務所を出たり入ったりしていると話してくれた。吉田さんは、軽度の知的障碍者で、軽いから仕事もできるし社会生活にも最低限は参加できる。でも何度頑張っても社会からはじき出されてしまう。それで路上生活をしながら軽犯罪をして留置所や刑務所に入ったり、ときには労災で病院に入院したりして生きていた。それが吉田さんがみつけた生きる方法なのだと話してくれた。

社会は競争のうえに成り立っている。そうなってしまっている。勝者は敗者に手を差し伸べているだろうか。学校でよーいどんで競走したとき勝者は敗者を助けることを教えるだろうか。ぼくたちは弱い者と手を切るために勉強をしているのだろうか。競争に勝てばお金をたくさん貰える。地位や名誉や肩書がもらえるという。

はじめて就職した会社に嫌気がさして上司に辞めると伝えたとき「この会社でわたし(当時の部長は50代)ぐらいまで勤めれば、普通の人より大きな家に暮らして、普通の人よりよいクルマに乗れるんだぞ。もう少し我慢したらどうだ」と言われた。心の底からそんなもの欲しくもないと感じた。

結局、ぼくは競争しなくても生きていける、そういう環境に暮らしたいと思うようになった。ぼくは妻と二人でアート作品をつくって暮らしている。当然ながらアートの世界にも競争がある。よい作品/悪い作品という区別があって、ひとはよい作品を買いたいと思う。将来的に価値が出そうな作品を欲しいと思う。

どこまで逃げても競争はなくならない。だから自分の表現だけでも「よい/わるい」という区別を消したいと考えている。ヒントは自然のなかにある。自然には優れているも劣っているもない。そんな概念は存在しない。動物も虫も植物も、それぞれの生態系を持って生き延びている。人間が雑草と一括りにする草たちは、それぞれが生存戦略を持っている。小さく弱いけれど、強く生きるチカラを持っている。

いつのころからか人間が創り出した優劣をどうしたら超えることができるのか。いつも考える。だからヘタになろうと思う。技術の源流へと遡ってみたい。競争ではなく、他者との比較ではなく、ただ作品が存在する、モノとして生まれ、そこにある、作らなければならないとか、売らなければならない、という理由よりも作ってしまった、という衝動が先行する作品。

生きるとは死ぬとセットで、どちらかだけがあることはない。同じように単に「よい」というだけの作品があったとしたら、それは美しくない。「理想」という嘘もあるかもしれない。いや、理想は嘘ではない。理想は実現するという志向性がある。理想はそれを描いたときから「ほんとう」の側へと向かっていく。理想を追い続ける先にはちゃんと死が待っている。

「よい/わるい」の向こう側へ、その理想郷に作品が生まれいずるために、ぼくは身の回りの自然から作品をつくろうと企んでいる。そこにある地面を掘って土を手に入れる。それを粘土にする。その粘土がどういうものであれ、なにかしらかの塊に成形できるのであれば、その不自由さも含めてカタチにする。神様はそうやって人間を創ったのだから。

粘土を炭窯で焼く。炭窯がそこにあるから。焼成温度は800度程度だから陶芸にはならない。けれども土はひとつの塊になる。それが何か、どうなるのかは、そのモノが語ってくれるだろう。

裏山で楮をみつけて、それを蒸して枝から剥いだ。今日は、それを煮て皮を削いでみようと思う。手順としては、それを叩いて繊維にする。そうやって紙をつくってみようと思う。つくった紙につくった炭で文字を書きたい。そのときどんな言葉が出てくるのだろうか。買ってきた有り難みもない紙と鉛筆で書く言葉とそれは違うだろう。言の葉。その源流へと回帰する。

すべて自然からつくられた作品。そいうモノが何を語るのか、ぼくはそれを見てみたい。きっと拙いものだろう。不格好なものだろう。

人間は、便利になり過ぎて、目の前にある環境の利用価値が見えなくなって、遠くの便利や快適さに手を伸ばしては、届かないと悲鳴を上げる。大切なモノは、自分が生きているその目の前にある。そこを選んだのだから。それが愛するというこではないだろうか。もし未だに居場所を選んでないなら、すぐに移動するべきだ。今いるべき場所へ。

水は高いところから低いところへ流れていく。人だろうと組織だろうと国家だろうと、高いところから低い場所へと手を差し伸べられるようにならなければ、争いはなくならない。

バリ島で滞在制作したとき、ホストがホームパーティーを催した。驚いたのは、親戚や友達だけでなく、近くの路上生活者も受け入れて家族のように同じ楽しみを分かち合っていた。聞くと、分け隔てなく分かち合うのが、ほんとうの裕福さの証と考えられている、と教えてくれた。東南アジアの小さな島のひとつの家族が、一時的に争いのない日常を作っていた。