いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日記のような経過としての2月23日

書くという習慣のために、起きた出来事を記録している。思考するために文章を書いている。その習慣のおかげで本が手元に2冊、完成しつつある。本をつくりはじめる前は、その工程を想像しただけで、途方もない山に登るような気持ちになる。けれども遠くへ行くという覚悟をするよりも、書くべき言葉に日々向き合うことで、一歩ずつ山を景色を楽しみながら歩き進んでいくように、言葉を書き続けることで、本はやがてカタチになる。大切なことは、小さなことを捨てないで集めておくことだ。

「生活をつくる」という活動をしてきた。生活をつくるとは、生きるために必要なことに向き合い直し、必要に応じて自分の環境を作り変えていく作業で、今の世の中では、そのような活動に与えられる社会的立ち位置は存在しない。自分の生活をつくっても対価は発生しないから仕事ではないし、便利で快適な方へ向かっていくのでもなく、むしろ不便な方にシフトしていくこともある。生活をつくるという活動は、自分から見える世界に対しての必要に応じた結果で、そのニーズは何に対して応答しているかと言えば、この時代の要請だと思う。この時代の要請はどこからやってくるかと言えば、それは直感としか言いようがない。直感に従って行動するには、社会的な意義を一旦捨てて、それに何の見返りがあるのか分からないことをやってみる覚悟が要求される。覚悟と言うと厳しく重い感じになるけれど、やりたくて仕方ないことを自分にやらせてやる、と言い換えたら、同じ意味でもまた響きが違うかもしれない。

6年前のちょうど今頃の時期に、モロッコのアーティストインレジデンスに2カ月間滞在した。そのときに伝統工芸とコラボレーションしたくて、カーペット職人にデザインを渡してラグを制作してもらった。その橋渡しをしてくれたのがレジデンスのオーナーのジェフだった。当時、旅をしながら絵を描いていたので、絵を売るばかりでなく、物々交換なんかもした。アート作品の成立要素のうちの「欲しい」という感情を抽出したかった。お金を排除すればずっと「欲しい」という感情は出て来やすくなる。

ジェフが欲しいと言った絵と彼の作品を交換する約束をしていた。けれども口約束だろうと、すっかり忘れていた。ところが、ジェフは覚えていてくれ、6年経った先週、やっと渡せる作品ができたよ、と突然メールをくれた。

昨日ZOOMでミーティングして、不自由な英語ながらも久しぶりにコミュニケーションして、改めて世界と繋がる喜びを再確認した。例えば、日本に理解者が3人しかいなくても、地球全体には、その何倍もの理解者が存在しているという希望を思い出した。

ジェフは、6年前のぼくたちの活動に刺激を受けたと話してくれた。特にカーペットをつくった職人は、それ以来、アーティストとのコラボレーションに目覚め、彼女の人生が変わったというエピソードを披露してくれた。ジェフが描きあげた絵も簡単に描いたような代物ではなく、妻チフミとぼくをモデルにした愛に溢れた絵だった。これは確かな実験結果で、お金以外のモノで取引すると人と人は繋がりを強くする。そして、たまにこうしたミラクルが起きる。

現在の生活をつくる活動の原点に、2013年から2014年にかけての旅がある。いまは北茨城市で、当時からは想像もできない生活をしている。はじまりは、東日本大震災だから10年前のことだ。旅から戻った2014年は、40歳で無職だった。それが今は北茨城市と共に景観をつくるアートプロジェクトに取り組んでいて、それが仕事になっている。これも直感に従ってたどり着いた未来だと言える。

ここでの生活の基盤は、豊田澄子さんという女性との出会いにある。肝っ玉かあさんのような澄子さんが、廃墟の改修を快諾してくれ、その環境をギフトしてくれたおかげで今がある。澄子さんは、居住空間を提供してくれただけでなく、日々の食事の面倒も見てくれている。買い物に出かけるとぼくたちの分も買ってきてくれる。食事をつくれば食べに来いと電話をくれる。澄子さんは畑で採れた野菜を分けてくれる。ここには現代社会には存在しない経済がある。もしかしたら、澄子さんがこういう経済態度を持っていて、それは50年も前の日本人の気質なのかもしれない。

という具合に何も考えずに文章を書いてみたら、どうやら経済についての話に展開した。

お金は必要なときに必要なだけあればよくて、必要なモノも、ほんとうにそれが必要なのか、代用はできないのか、作ることができないのか、検討することで、消費を生産へと変換させることができる。その創造活動を生活芸術と名付けている。

作品集の英訳をシンガーソングライターの友人に依頼して、その前に自分でも翻訳してみた。できない英語で思考すると、少ないボキャブラリーで思考をサバイバルさせるから、より単純化して洗練される。

「多い」よりも「少ない」方が機能的に働くことがある。少ない方を目指すことで解決できることがある。つまり、減らしていくことは、成立する最低条件を追求していくことで、それ以上減らしたら成り立たない限界を知ることが、その行為の本質を明らかにしていると言うことができる。

ジェフの絵には、和船を漕いでいるぼくが描かれていた。ジェフは、日本の大工技術に惚れ込んで自分でも家の改修をやるようになったらしい。だからか、息子とボートを作りたいんだ、話してくれた。モロッコのテトウアンの川がいい感じに開発されて、カフェとボートのお店なんかやれたら最高だね、と盛り上がった。

それが夢物語でもなんでもなく、きっとできるとイメージできる。というのも、ぼくはお金を増やすことは考えないから、移動する予算さえどうにかなればいい。この夢の最低限成立条件は、川で遊ぶボートをつくることだ。川にボートが現れれば、誰かがまたボートを作るだろうし人が集まればカフェもできるだろう。増殖させることよりもはじまりをつくることに興味がある。

だから本をつくることの意義も変わってきた。本を作ったら出版社から流通してもらい、たくさん売らないと、と考えていた。けれども、たくさん売るために文章を書いているのではなく、この時代のこの先に求められるモノを直感で拾い集めていて、その活動について正直にまとめたモノをカタチにするのだから、まずは自分が納得する本をつくることに意義がある。そして結果はどうあれ、それを世の中に届ける努力をする。それが本というモノの最低成立要素だと考えるようになった。増殖させることは、その先に起こる話だ。

こういう考え方を支えているのは、心の繋がりを持つ相手がいることだ。金銭を抜きにした繋がり。命の繋がり、自然との繋がり。

言葉は、今見えていることと見えていないことを明らかにしてくれる。

昨日ふとこんな考えが浮かんだ。

波風立てて騒ぐことを活躍と呼ぶなら、波風を抑えて、静かにすることを何と呼ぶんだろうか。

If people act in a way that makes waves and makes a lot of noise is called being active, what is it called to keep the waves down and be quiet?