いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

コロナ禍日記。起きなかった過去と起きている現在。

コロナウィルスと共存する日々は一年を超えた。いつまで続くのか。生活はぐっと狭い世界に押し込められている。東京へは行かなくなって、その繋がりはネット上だけになった。現実では、北茨城市の山間部の集落のなかだけに暮らしている。

2020年度は、ほぼコロナに覆われていた。2月に東京で個展をやって、また夏頃にやりましょう、と話していた。それも自然消滅した。北茨城市の山間部に開拓している地域で、イベントをやったり、県外や海外の人にアトリエを滞在制作として開放する予定だった。けれども、それをしていたら、と考えることはほとんどない。あるときから「ノー・エクスペクテーション」を標語にしている。ローリングストーンズの大好きなアルバムに収録されている曲でもある。

期待しない。これをこうしたら、こうなってとイメージを膨らまさない。簡単に言うと、これだけアルバイトをしたら、これだけお金が貯まる、みたいな計算をしなくなった。それに向かって活動をしないということではなく、期待を上乗せしない。もちろん、目標に向かって進んでいくのだけれど、途中で道が閉ざされても、期待しなければ、迂回したり、道を作ったりすることも、起きるべくして起きた仕事だと受け止めることができる。そもそも、未来を予測して、そこに期待しなければ失望もない。ある意味、仏教的な気持ちがあっての「ノーエクスペクテーション」だ。

 

今の自分のライフスタイルは東日本大震災から繋がっていて、社会のインフラとある程度、独立したところに生活をつくる必要があると感じた。その直感のままライフスタイルを作ってきた。危機的な災害に対応した生活になっているから、コロナ禍でもさほど変化のない暮らしをしている。

時間の感覚が変わりつつある。以前は、成果を毎月、もしかしたら毎日、お金を数えるように積み上げる必要があるような気がしていたし実際そうしていた。けれども、コロナ禍では、慌てて動き回るよりも、もっと先の未来に向けて制作するようになった。1日、1日をコツコツと生きている。良いのか悪いのかは、今は分からない。

独立して、つまりフリーランス的な立場で、しかもアート活動を軸に暮らしていくいまの状況は、奇跡的なバランスで成立していて、いつ成り立たなくなるのか、まったく予測できない。

やりたいことは、未だ認知されていない分野をアート表現として位置づけすることだから、当然それは仕事にならない。ニーズすらも未だないものを作るのだから。けれども、ゴーギャンのことを知って、よりそうあるべきだと信じるようになった。妻には申し訳ないけれど。生活そのものが芸術になれば、それを指向する人が増えれば、社会そのものも変わる、という仮説のもと活動をしている。生活を作るということは、日々の暮らしのすべてをただ受け入れるのではなく、ひとつひとつを検討して取り入れていくことで、それは、高いとか安いとか、便利だとか不便だとか、既存の価値基準を超えたところ、つまり個々のニーズに応じて編集さることになる。

この取り組みを理解してくれたのが北茨城市で、生活を芸術にする延長にある山間部の集落の景観をつくるというプロジェクトを集落支援員という仕事として読み換えて発注してくれている。生活をするということ、地域をつくること、それ自体がアートプロジェクトとして動いている。つまり、経済的なパトロンを得て生き延びている。偶然にも活かされているという感覚だけがある。だから、いつこのバランスが変わるか分からない。だけに尚更、ノーエクスペクテーションというスタンスになる。

今は春に向けて準備している。植樹した桜の花が咲く、菜の花が咲く、一年が経って、ようやく景観が作れることに期待している。社会に対しては期待せずに、自然には期待しているらしい。自然には期待というより賭けと言った方が適切かもしれない。

生きるための芸術の3冊目を寝かしつつ、作品集の編集作業をしている。本を作るのが好きで、たいして評価される訳でもないけれど、そもそも、理解の向こう側を開拓しているのだからと、これも諦めている。諦めているから、やらないのではなく、現在の評価を期待することなく、とにかくやり続ける。未知の領域を開拓しているのだから、よっぽど上手くやらなければ伝わらない。まずは自分が納得するまで精度を上げるしかない。

その時にしかできないことがある。状況が悪くても、そのバランスの悪さのなかで、生み出される表現がある。それはその時にしか生まれない。文章も同じだ。今の考えや気持ちは今しか生まれない。

昨日、読みはじめた井筒俊彦さんの本。スッとわかりやすく複雑な文章が入ってきた。

あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何ひとつない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫通する。ひとつひとつのものが、どれも己の内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつひとつの中に見る。だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつひとつのものが、即ち、一切なのであって、燦然たる光輝は際涯を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつひとつの星、それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)しかもすべてがお互いに他のなかに映現している。

 

プロティノス「エンネアデス」井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」からの引用。