作品集をつくっている。振り返ってみれば「表現したい」という強い意志だけがあった。何かを学んだわけではないけれど好きなことだけはあった。音楽、漫画、アニメ、小説、映画、物語の世界に没頭するのが好きだった。
はじめは文字をつくった。物語世界の設定をつくった。登場人物をつくった。絵を描くより小説を書くより、別世界を創造することに取り組んできた。そのために絵を描き文章を書いた。
2009 language system of mundos
作品集をつくることで、してきた表現が循環した。まるで呼吸だ。「つくる」という行為、自分の原点を再確認している。それは世界をつくることだった。
世界とは、地球上のすべての国、人間の社会全体、すべての有限な事物や事象の全体、特定の範囲を表すことば。
WORLD
The earth and all the people, places, and things on it. A group of things such as countries or animals, or an area of human activity or understanding.
何をしているのか。自分が生きる理想の世界を表現している。そのための作品だ。それを理解してもらい、売れるものにしなければ・・・と考えていた。けれども、「つくる」と「売る」の距離は途轍もなく離れていると改めて思い知った。
この数週間、「意味の深み」井筒俊彦著をひとつの章ずつ読んでいる。そのなかに思想家ジャック・デリダが「テクスト」と「ディスクール」という語で世界を読み解くというエピソードが出てくる。テクストとは文章のこと、ディスクールとは書くこと。世界はテクストでできていてその世界を書くことで生きているという。つまり人は世界をことばで理解している。ことばで埋め尽くされた意味の世界を読み解きながら理解して自分の世界を記述しながら生きているという。いまではインターネットの情報を検索して、SNSやブログで発信していることに準えれば分かりやすい。世界を理解するとき表面上にことばがあって、その深層にはことばの根があって、そこでは意味が折り重なったり揺らいでいるという。そのさらに奥には無がある。無だから何もない。つまり目の前に存在するモノ、それ自体もことばで指し示すようには存在していない。
モノの存在は多層構造になっていて、分かりやすくするほど表面的になる。深層に入り込むほど枝分かれして、意味は分裂して無へと沈んでいく。
例えば「サクラ」ということばで春に咲く桜の木をイメージさせることができる。そのサクラがどこに咲いているのか。種類は何か。枝、葉、花、木肌、空の色、時間、もしくは偽客(サクラ)なのか。そうやって物事を深層へと追っていくことができる。
ぼくは目の前の物事の深層へとダイブを繰り返している。作品の題材、アート活動のテーマは、既存の意味の奥深くを見ることでもある。一般に流通する「名称」の奥へと潜ってアイディアをみつける。その閃きを世の中に伝えるためにカタチにする。それが作品になる。生きていくためにその作品を売っている。
何のために売るのか。理解されたことの証、お金、評価、喜び。作品集をレイアウトしながら思った。オルタナティブな世界を作ろうとしている。予めテクスト化された既存の社会とは別の世界をディスクールしている。ならば「売る」というアウトプットのやり方もつくることができる。「つくる」から「売る」への過程のが長いほど作品は豊かに物語る。売るという活動は、お金になるし、評価という意味で重要だけれども、売れるモノを目指してショートカットしてしまえば、作品の深層がなくなってしまう。
音楽にしろ小説にしろ、絵画にしろ、作品には根がある。ぼくはそういう作品の世界に没頭するのが好きだった。ことばとして直接的に説明されていなくても、その深層には物語が広がっている。このブログはまさに自分の世界<テクスト>を<ディスクール>している深層と言える。売り物にはならないけれど、果物を実らせる果樹として、その栄養となる大地としての役割がある。そのために自分のことばを耕している。自分にしかできない表現というモノがある。自分の環境、目の前に広がる世界に向き合って己から溢れてくる想いやイメージ。それに正直であることだと思う。
ゴミ箱に捨てられる