いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

不用品のなかの美しさ

日曜日に薪づくりをしようと準備をしていたら電話が鳴った。
「もしもし。お皿と木があるから使いませんか。以前新聞でそういうものを集めていると読んだので」

という話だった。家を直すための廃材を集めた去年の新聞記事を読んで覚えていたのだろうか。妻チフミに相談するとせっかくだから「貰っておこうか」と了解を得た。ちょうど友達が薪づくりを手伝いに来てくれる予定だったので、友達の軽トラックで取りに行った。

廃品回収をしている訳ではないからほんとうは要らなかった。でも何かの縁だし、困っているのかもしれなし。何もメリットはないけれど取りに行った。案の定、家の前に段ボールが10個ほど山積みになって、伐り飛ばした松の庭木が置いてあった。明らかに「いいものがあるから使ってください」ではなく「処分に困ったから取りに来て」だった。不用品を積むと依頼主のお婆さんは、みかんを2個くれた。

家に持ち帰って妻チフミに見せると「そういうことだよね」と納得した。

とりあえずゴミらしきモノたちは、そのままにして炭を焼くための薪づくりをはじめた。この日の仕事だ。友達は元きこりなので、木の解体はプロの腕前。おかげで午前やって午後2時には完了した。

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むかしは、暮らしに火が欠かせなかった。だから、いつも木は切られて枝はすべて拾われていた。それは美しい景観だったそうだ。

さて不用品の中身はいかがなものか。段ボールのなかを検めた。やっぱり昭和の何でもないコップや皿たち。ほんとうにどうでもいい。。ところが、その中にいくつか面白いモノも現れてきた。銘品でもないけれど、明らかに手描きや人の手で焼いた感じのする器があった。

いいモノとは何だろうか。評価があるからいいモノなのか。大量生産は良いモノではないのか。役に立たないモノたちと向き合うとき、モノの本質に触れるような気がする。

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老夫婦の不用品回収をした。ぼくたちはそれを整理して、ほとんどを清掃センターに持ち込んで有料で処分するだろう。まったく無駄な働きなのだけれど、それはぼくら夫婦と手伝ってくれる友達のタダ働きという問題より、利益を追求する社会の水面下で氷山のように巨大な見向きもされない「無駄」が雪だるま式にでかくなっている。どんどんそれは膨らんでいるけれども、誰も損をしたくないから、手を出さないでいる。

この名付け得ない出来事を作品として展示するとしたらどうなるのか。

先週の木曜日に美術館の学芸員さんとアート談義をさせてもらい「注目しているから、いつか何かやりましょう」と言ってもらえた。芸術ではない道を開拓してきて、その闇い道に突然、光が差すように嬉しかった。

強さより弱さ、良いより悪い、大きいより小さい、要と不要。数や評価では計れない、言葉にならない現象を「展示」は表現することができる。生活という小さなフィールドにはそうした現象がいつも埋もれている。とても芸術ではない、けれども人間にとって欠かせない物事を捉えてみたいと考えている。そのために無駄も失敗も、絵画も立体も、木工も、農業も炭焼きもなんでもやってみようと思っている。

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