いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

10000年の反省。土器からやり直す。

地域で景観をつくるために桜を植樹した。夏には雑草が溢れて桜に絡まってた。9月になって一本づつ蔦を取り除く作業をした。やっと桜と向き合うことができた。そのとき「絡まる」という言葉の状態が目の前にあった。蔦は桜に絡まって倒してしまう。それは「絡まれる」という言葉そのものだった。

気が付いたのは言葉は、行為やモノや身の回りのことを説明するために生み出されてきたということだ。当たり前だけれど、新しい技術が生まれれば同じように言葉も生まれる。

おかげで土器を作っている意味をみつけた。井戸を掘って粘土をみつけて土器を作り始めて、自分はなんのためにやっているのか、意味はあるのかと不安になっていた。陶芸という芸術表現があって、たくさんの人がその表象技術を磨いているなかで、身の回りに名人達人もいて、昨日はじめたところで何になるのか。そう思っていた。けれども掘り出した粘土で土器をつくるということは、人類が器をつくった現場検証することができる。その発明現場に立ち会うことができる。つくった器の出来を競う事よりも、その行為のなかにある言葉に出会うこと、そこにとても重要なことがあると気が付いた。

「アート」に取り組んできて、そのなかで「生きるとは何か」「芸術とは何か」という問いが生まれた。それは「生活芸術」というコンセプトになった。生きるとは身の回りのモノを駆使して命を繋ぐ行為で、それが生活をするということだった。けれども、現代では生活をすることは商品やサービスに取って代わられている。命を繋ぐ活動を体験するには、生活を取り戻す必要があった。つまり自然のエレメント、水、火、土、木、太陽、それらを駆使して生活をつくり直す必要があった。それを実践していくうちに、そもそも芸術とは、生きるために身の回りのモノを駆使して道具をつくったところに原点があった。「生きる」と「芸術」、それぞれ別々の支流を遡っていくうちに、いよいよそれが合流しつつある。

人間が生きるためにしてきた発明・発見がある。火の発見。言葉の発明。農耕の発明。紙の発明。土器の発明。それらを発見・発明する度に言葉が生まれた。

土器からやり直すことは、生きるための芸術そのものを体験する。例えば「井戸を掘ったときに出土した粘土で器をつくった」という直感は実践したからみつけた眼差しだ。自然に働きかける行為のなかに起きる出来事は、いまもむかしも変わらない。そこには起源がある。

「つくる」という人類の歴史を産業革命までやり直したら面白い。土器をつくりながら、紙をつくろう。パピルスからやり直す。原点から人類を見つめ直したとき、そこにどんな表現が起こるのか。