いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

思考、活動、仕事、労働=人間活動について

昨日、久しぶりに宇川直弘さんのDommuneを観た。そのなかでハンナ・アーレントを引用して「ここで言う事ではないかもしれない。みなさん仕事をされてきているのに。ぼくはこのDommuneをずっと活動としてやってきた。これは仕事ではない。つまりハンナ・アーレントが言うところの活動している」

宇川さんは、コロナで仕事が回らなくなっているクラブ関係者やミュージシャンの前でそう話した。Dommuneが何か知らない人は、それを調べてもらうとして、ハンナ・アーレントがいう活動とは何か調べてみた。

ハンナアーレントは人間生活を観照的生活と活動的生活の二つに分けた。観照的生活とは、永遠の真理を探究する哲学者の生活で、活動的生活とはあらゆる人間の活動力を合わせたもの。

活動的生活は、活動、仕事、労働に分けられる。

  • 「活動」は、人間があらゆる存在関係の網の目の中で行う行為であり、平等で違いを認め合う人間の間に存在する。個々人は自発的に「活動」を開始し、その行為の結果として自身が何者かを晒し自らを知る。自身には決して明らかにはならないが他者には明白ななんらかの徴でもある。
  • 「仕事」は、職人的な制作活動に象徴される目的-手段的行為をさす。ある特定の目的の達成をめざして行われる行為はアーレントにとって「仕事」であった。「活動」はその結果として語り継がれる物語以外の何物をも残さないが、「仕事」はその達成された目的の証としての最終生産物を残す。最終生産物の産出に示される「仕事」の確実性は古来より高く評価されてきた。
  • 「労働」は人間の生存と繁殖という生物的目的のため、産出と消費というリズムにしたがって行われる循環的行為である。「活動」や「仕事」と異なり、人間は生存に伴う自然的な必要を満たすために「労働」を強いられる。それゆえ古来より労働は苦役であり続けたが、アーレントによればマルクスによって人間が行うもっとも生産的な行為として位置づけられた。(wikipediaより引用)

ぼく自身「活動」という言葉を多用するけれど、こんな風に分類はできていなかった。アーレントの思考に触れて、自分が「人間生活」全般に取り組もうとしていることが分かった。文章を書くことは思考するためだ。常に「問い、考え、導く」を繰り返している。「なぜ」を問い続けている。どうして目の前のなにかがそうなっているのか。例えば、どうして人類は土地を巡って争い続けてきたのに、日本の田舎の土地は耕作放棄地になってしまうのか。どうしてあの波に乗れないか。どうしたらもっと上手に乗れるのか。「問い」内容や対象はなんでもいい。それがアーレントのいうところの観照的生活だから。まさにそうした活動を物語以外に残す手段がないから、ぼくは文章を書き続けている。それをまとめる仕事を経て「本」という最終生産物に残す。つまり、自分のしていることのなかに「哲学」があることを知った。

自然に対峙して生きていこうとするとき「労働」する。ぼくが考えるに「労働」は人間が人間に強いるものであってはいけない。もっと単純明快な、生きるために大地に働きかける活動だ。自分の中から湧き起こる興味や生への渇望。その活動が労働となって結果、収穫物をもたらす仕事になる。

ハンナ・アーレントは「人間の条件」でこう書いている。
『実際、人間の労働力は自然の一部であり、おそらく、すべての自然力のうちで、最も強力な力なのである。(本文P188)』

ということは、ぼくが何をしているかを説明するなら「人間活動」をしています。ということになる。たぶん、誰にも伝わらないだろう。表向きには「芸術家」と名乗るだろうけれど、絵を描くことも彫刻をやることも、陶芸も、サーフィンも畑も開拓も、すべて人間活動を知るための手段に過ぎない。それでも、ネットで調べただけで一冊もハンナ・アーレントを読んでいないのに、こうやって理解した気がするのは、どうなんだろうか。せっかくなので何か一冊は買ってみようと思う。

「過去と未来の間 政治思想への8試論」ハンナ・アーレント